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ヴェイルの守護者

十六章

彼ならば、助けてくれる──。

そう信じたことに、根拠はなかった。理由はなく、けれど当然のようにそう思って、呼んだ。

オフィル、と。

その、瞬間。

ぶわわ、と不気味な音がごく近くで聞こえた。

どこか歪みを感じさせる、不透明な音……出どころはひどく近いと分かるくせにどこかはわからない、そんな音。

「なんだ……?」

思わず片膝を立てて腰を浮かした。

ぞわ、と腕が粟立つ……その感触にぶるりと小さく身震いをしたディナティアの耳を、小さな呟きがかすめた。

「どうして……」

これは、悔しさというのか。

それとも、切なさと呼ぶのか。

やりきれない感情を宿したその呟きに、ディナティアがそちらへ首を巡らす。

その刹那を狙ったかのように、ひときわ大きな音がぶわんと響き、空気が、揺れた。

そうして、空間が割ける。

巡らせた首を元に戻したディナティアは、見たことのない現象に腰に手をやったまま息を詰めた。

自分の常識では考えられないことが目の前で起きている。

それだというのに、感じる恐怖はわずかであることに戸惑った。

妙に冷静に事の成り行きを見ている自分がいる。それが自分の理性なのか、あるいは失われた記憶なのかはわからない。

だが実際、肌は正直に粟立つというのに、心は不思議と落ち着いているのだ。

それは、ぱっくりと割けた空間から人が吐き出されてきたときも変わらなかった。

突如空中に出現した不可思議な穴から、その人は現われたというのに。

その人は、長い金髪をしていた。澄んだ泉の底を映したような青の瞳を向けて、ふわりと微笑む。

自分に向かって笑いかけたのだと、理解するまでに数秒を要した……断じて見とれていたわけではない、と誰に対してかよくわからない言い訳を内心でしつつ、その微妙な間をごまかすかのようにぱちぱちと瞬くこと二回。

その間に一度、こくりと唾を飲みこんで、ディナティアは口を開いた。

「オフィル……?」

多分に不安を含んだその呼びかけに、青年の笑みは苦笑に取って代わる。

「ご自分が呼ばれたくせに、それはないでしょう」

そう言われたって覚えてないものはしょうがないだろう……思わず反論しかけて思いとどまった。事実はどうあれ、現状では初対面の人間だ。初対面の人間に突っかかるほど、自分は礼儀知らずではない。

軽く拳を握りながら、そう考えた自分にあれ? と思う。

礼儀知らずではない?

そう思う根拠は?

問いかけに応えるものはない。記憶を遠いところに置いたまま、感情だけがそのことを無視しているみたいだ。

それは決して気分のいいものではない。

確固とした不安が常にある。その重圧は生半可なものではなかった。

それをどう扱えばいいのか、自分はまだわかりかねている。……当然だ、こんな状況になったことなど、いままでなかったのだから。

よしんば、あったとしても、その記憶がなければそれは同じ事だ。

そう、物事一つを考えるのに、いちいち回りくどく考えなければならない。

はじめてのことをはじめてと捉えるのに、どうしてわざわざ、今の自分にとっては、と注釈をつけねばならないのか。好んでこんな境遇に身を置いたわけではないというのに。……恐らくは。

堂々巡りを始めた思考に、思わずため息が出た。否、ため息でそれを止めようとした。

考えるからいけない。

「なにかあったことは知っていましたが、まさか記憶喪失とは……」

考え込むように言った青年の言葉に、少年が反応する。

「オフィル様、ご存知だったんですかっ?」

口調は丁寧ながら、噛みつかんばかりの勢いで尋ねた少年に、青年はゆるゆると首を振って答えた。

「なにがあったかを知っていたわけではないよ。姫の身になにかが起こったと……その兆しを受けとっていただけだから」

その言葉に、今度はディナティアが反応する。

「ひめ…………?」

まるで知らない単語を聞いたかのような、危うい言い方で反芻(はんすう)する。

「それは…………わた、しのこと──か?」

問いながら、右手が自身を抱きしめた。故意にではなく。

「ディナティア……様?」

変わらず笑みは浮べたまま……けれどわずかに表情を曇らせて青年が名を呼ぶ。

「ちがう……わたしは姫なんかじゃない」

視線があちらこちらをさまよった。力ない仕草で首を横に振る。

「わたしは、ただの……」

ただの?

なんだというのか。

自問と同じ問いを、少年が投げた。

「ただの? ただのなんだっていうのさ、お姫様?」

限りなく棘のある言い方に、青年が困ったように眉をひそめて少年の肩を抑える。だが、少年はそれで止まりはしなかった。

「思い出しもしてないのに、なんで頭から可能性を否定しようとするのさ? そんなに姫って言葉が嫌い? 嫌な思い出でもあるの? そんなわけないよね、何もかも忘れてるんだから。ねぇ、お姫様?」

ぐさぐさと投げつけられる言葉に、けれどディナティアは反論できずにうなだれる。

彼の言葉に理不尽なものを感じるくせに言い返せない自分がいる。そのことに戸惑いながら。

なにも知りはしないくせに。

お前にわかるものか──!

喉元までせり出した言葉は、けれど吐き出されることなく彼女の中で消えた。戸惑いがとって代わった。

では自分は何を知っているというのか。なにがわかっているというのか。

それすらもつかめないというのに、心は訴えつづける。

嫌だと。ただそれだけが、わかっていること。

「だけど嫌なものは嫌なんだ……違うったら違うんだ!!」

まるで駄々っ子のようだと思いながら、それでもディナティアは否定した。そうしなければならない気がした。

だがそんな想いを少年はあっさりとはねのける。

「そんなのは勝手な都合だろ? 事実とは違うだろ? ここまで僕たちを巻きこんでおいて、それはないんじゃないの?」

「え……」

取り付くしまもない硬い声に途方に暮れて、思わず助けを求めた──脇で困ったような笑みを浮かべている青年へと。言葉でなく瞳で。

その視線でさえもさえぎるように、少年はたたみかける。

「オフィル様だってそう思いますよね?」

ディナティアの視線を受け、少年の言葉を受け……青年は少し考えるような表情を見せた。それはほんのわずかな時間。

その一瞬が、ディナティアには長い。辛い。

「忘れていたければ、そのままでいいのですよ。そう、わたしは思います」

静かな声がそう告げる。

信じられない、といったように少年が彼を見た。

「だって、それじゃタ──!」

「それも彼女の決めることです」

やわらかな声が、あがりかけた抗議の言葉を抑えこむ。

それは優しく穏やかなくせに……けれどとても厳しく冷たいものに、ディナティアには聞こえた。

「何を思いだし、何を思いださないか……それを決めるのも彼女なら、あとで後悔するのも彼女です。わたしたちの関わる領域のことではない」

ずきり、と心が痛んだ。

「まるで、後悔することが決まっているようなことを言う……」

返るのは穏やかな笑み。その意味は、けれどディナティアにはわからない。

彼の態度が優しければ優しいほど、その声音が穏やかであればあるほど、少年の言葉よりも彼のそれは遠く聞こえる。

他人事だと、言われた気がした。それが痛い。

なぜそう思うのか……不思議に思うものの、現実としてその想いは心にある。

彼の言うことはきっと正しい。

けれど──欲しかったのはそんな言葉ではない、と感じた。

「ずるい……」

かすかに唇を震わせる。想いが声に乗ったことに少なからず驚いた。けれどいまさら止まらない。

ことり、首をかしげる青年をきっと睨みつけ、彼女は言を継いだ。

「そんなことを言われたってわたしは何も覚えていないんだぞ! 忘れたくて忘れたわけじゃないのに、どうしてわたしが悪いように言われなきゃならない? 自分たちが覚えているからといって優位に立ったような口をきくのはずるいだろう!!」

少年と出会ってからこちら、ずっと抱えていた思いのたけを吐き出す。

穏やかな顔をした青年は、それでもまるで表情を変えない。それがまた神経を逆撫でた。

「お前たちはなんだっていう? わたしのなんだと言うんだ? どうしてわたしに向かってそんな口をきく!?」

わからないわからない。

味方なのかそうでないのか。

頼りにしていいのかしてはいけないのか。

呼べば飛んで来たくせに、どうしてこうも突き放す?

「そんなことを言うから!」

少年がたまりかねたように声を上げた。

「そんなふうに言うから、思い出してほしいんじゃないか──!」

切実な響きを宿した言葉が追い詰める。

できるならとっくにやっている…………!

泣きそうになった。けれどそれはできない、と思う。

この感情がどこから来るのかは知らない。けれど心がそう叫ぶから。

「ディナティア様、どこへ……」

わずかな狼狽の響きを宿す青年の声を置き去りに背を向けた。走り出す。

「ディナティア……!」

追ってくる少年の声を聞かぬよう、心の耳に蓋をして。

なぜ逃げる……?

わからない。

どこへ行く……?

わからない。

けれど今、彼らのもとに自分の居場所はないと、そう感じたから。

ディナティアは走った。