1. Home0
  2. Novel1
  3. 君がここにいる奇跡

君がここにいる奇跡

ニ章 記憶の跡 其のニ

「やっほー。お待たせ」

脳天気極まりない調子と台詞で「プアゾン」に現われたリョウに、志鶴は渋面になった。しかしそれには気づかず──あるいは、気づいていながら気づかぬフリで──リョウは千津穂の前に置いてある、パフェの器をのぞきこんだ。

「ちい、おいしそうなの食べてるねー。……おねーさぁん、俺もこれとおんなじやつ」

千津穂と向かい合って座る志鶴の隣りに腰をおろしながら、ウェイトレスに向かって叫ぶ。

……恥ずかしい奴……。

どうせ水を持ってきてくれるんだから、そのときにオーダーすればいいのに。

しかし、有人喫茶など珍しいからその気持ちも分からないではないが。

「……リョウ」

低い声で隣りの少年の名を呼ぶ。彼は黒のキャップをかぶり直しながら、なにさ、と言った。

「なんか怒ってる?待たせたから?でもしょうがないじゃん、貴文戻ってくんの遅かったし、お母さんなかなか見つからなかったとかで。でも遅いからって荷物放ってさいならってわけにもいかないでしょ。大体、貴文が戻ってくんのおとなしく待ってたから、ここに直行で来れたわけで」

じゃなかったらまだ探してるとこよー、などと。

いつもと変わらぬふざけた口調。

こんな奴だとは思わなかったわね……。

すでに彼との付き合いは10数年に及ぶが、こんな性格だとはついぞ知らなかった。だまされた気がする。

……あいつは知ってるんだろーか?

いや、知ってるに決まってるが、しかしその上であの決定をしたのだとするとたいしたものだ。

志鶴の思考はいつか故郷の者たちのもとへと戻ってゆく。

「志鶴?」

ぼーっとした表情の志鶴の前でリョウが手を振る。はっとして彼女は現実に引き戻された。

なんてこと。ホームシックだとでもいうのだろうか……この年で?

笑っちゃうわね、と内心で自分を笑う。

「怒ってるのはその前」

ぼそりと言うとリョウは首をひねった。

「前?……ああ、エスカレータの前陣取っちゃったやつ?……しつこいね。すぐにどいたじゃん。誰にも迷惑かけてなかったでしょー。なんでそんなこと根に持つかなぁ?」

むか、と志鶴は思った。

この言い方はなに?

「あんたはちょっと自己本位すぎるのよ。もうちょっと周囲見なさいよ……って、ちがうっ!」

本来の話題はこれではなく。

「なに怒ってんの?」

のほほんとした口調がかんに障るったらありゃしない。千津穂は二人を見比べるように、視線を右左させながらパフェを食べている。それをうらやましそうに見ていたリョウの前に、彼の注文が届けられて彼は見る間に嬉しそうに顔を輝かせた。

……子供か、おのれは。

「あんたがっ!怒らせてんでしょーがっ!」

言うと、リョウは一口目をバクリといきながら、目を丸くする。

えーそーなのー、と聞き取り不能な言い方で言った。わかってしまう自分がなんだか悲しい。

「そうなの!人の話聞きなさいよ、ちょっとはもう!なんでほいほい貴文と話しに行っちゃうの?あんた、自分の立場ってもの、分かってる?」

こめかみひきつらせつつ言ったら。

「……志鶴はおカタイなぁ。いいじゃん、ちょっとぐらい」

まるで緊迫感のない返事が返ってきた。幸せそうにパフェをがっつく少年へ、志鶴はびしっと指を突きつける。

「この間もそんなこと言ってたよね、たしかっ?もう2度と会わないとかなんとかっ?じゃあ、今日のあれはなにっ?」

リョウは黒目がちの大きな瞳で志鶴をきょとんと見つめた。

「だって会っちゃったんだもん」

がくぅっ、とこけそうになる。

「だもんって……リョウ……」

勘弁してくれ。ことはそんな問題ではない。

けれど彼はあっけらかんとして言うのだ。

「言っとくけど、今日のはわざとじゃないよ?助けてあげよーとした相手がたまたま貴文だっただけだよ?人に親切にするのは俺のモットーだし?」

……なんと信憑性のない言葉であることか。

「そんなすばらしーこと初めて聞ーたわ?」

「うん、言ったことないし。だけどいつも体現してるじゃん?」

志鶴はなにやら頭がくらくらしてきた。

呆れ果てて無言でいたら、それに耐え切れなくなったらしいリョウが千津穂に向け、尋ねた。

「ねぇ、ちい?俺、親切だよねぇ?」

いきなり振られ、千津穂は困惑したように首をかしげる。

「うん……?」

いまいちあいまいな返事であったが、リョウはそれを肯定と都合のよいように解釈したらしい。

「ほらほらぁ。志鶴性格歪んでるからわかんないかもしれないけどさ」

「ちがう。リョウのは親切とは言わない。あんたのはただ馴れ馴れしーだけ」

ついでにわたしの性格は歪んでない、と付け加えた。まったく、放っておいたらどこまでつけあがる気だか。

「……ひどい」

先割れスプーンを口元に当て泣きまねをする少年に、志鶴はますます渋面になる。

「ひどくない。……ねぇちょっとこれわざと?」

問いかけに返るは無邪気な瞳。

「なにが?」

嘘の曇りなど一見なさそうなその奥に見える、楽しげな揺らめき。

ほんとにタチ悪いったら……。

「話そらしたでしょ。わたしは貴文の話を」

「自分が勝手に突っ込んだんでしょ?それがなんで俺のせい?」

「……あんたってほんっとムカつくわ……」

「なんで。俺なにも悪いことしてないじゃん。大体志鶴さ、俺の言動にいちいち目くじら立てすぎ」

「あんたが無頓着すぎるからでしょーがっ!」

だんだんだんだん声が大きくなる。

周囲の視線がこのテーブルに集中してきていることに気づいて、千津穂があのー、と声をかけた。

「なにっ?」

こ、怖いっ。

実はリョウが来る前に千津穂も念入りにお説教された。樹川貴文と同級生であると知らせていなかったから、というのがその理由。

「あの人との接触は最っ少限にっ!留めるべきなのよ!なのになんでよりによって同級生?」

嘘でしょそんなこと聞いてないわよ馬鹿ー。

などと。いまさらというか、すでにそんなことは調査済みと思っていた千津穂はなにか釈然としないまま、素直に謝った。……そんな迫力が彼女には確かにあったので。

そのことを思い出し、千津穂はびびる。びびったので言おうとしたことがすこし的を外れた。

「……また話、ずれてるよ?」

瞬間、リョウががくっとこけた。おもいっきり脱力。

「リョ、リョウちゃん?」

スプーンはしっかり握ったまま、顔をテーブルに突っ伏したリョウが、うめくように恨めしげな声を出す。

「ちい……。君あんたちょっとそれ……せっかくの俺の苦労を……」

「あっ、ごめん。わざとだったの?」

「うう。聞きたくもない志鶴のお小言甘受したのに……この繊細な神経、ぼろぼろにしながら耐えたのにー」

ひく、と志鶴のこめかみがまたひきつった。

甘受?ではあの暴言の数々はなんだというのか。

繊細な神経?

リョウにそんなものがあるのなら、すでに一度や二度や三度や四度、胃痙攣だの胃ポリープだのに悩まされていてもいいはずだが。

しかしここでそんなことを言っても、またなんやかやと揚げ足を取られて、話をそらされるのが落ちだ。引っかかる自分も自分だが、こういうことに関しては奴は天才的なのだ。

「……ともかく」

咳払いをして志鶴は話を改めた。

「貴文に近づくなって何回も言ってんでしょ?なんで無視するの?」

「……志鶴、貴文嫌いなんだ?」

テーブルにめり込んでいた顔をようやく上げて、リョウが尋ねる。

「そういう問題じゃなく!自分の立場わきまえろって……」

「それは何回も聞いた」

すとん、と落ちるように硬質なリョウの声が割って入った。

ここ最近になって、彼は時々こんな声を出すようになった。ふざけた表情の消えるとき。そんなときの彼は、どこか近寄りがたい雰囲気を漂わせる。

「だったら……」

それでもなおかつ言葉を継いだ志鶴を、リョウは静かな瞳で見つめた。

「それ承知で近づいてんだけど?」

言葉遣いだけが変わらず。だからこその妙な威圧感。

「……リョウ?」

不意になぜか不安になった。

なにを、考えているの……?

読みきれない表情。深みを帯びたまなざし。

「言ったよね、志鶴?黙ってなさいって。この件に関して権限持ってるの、俺だよ?」

そう。それは分かっている。最終的な決定権は彼にある。あるけど。

「……だけど。だけどわたしはっ」

「志鶴」

抑えるように、リョウが名前を呼んだ。

声に宿る力。

……なんで?

なぜ、従ってしまうのだろう。彼に決定権があるから?

「だからさ、心配ないって言ってるじゃん。たとえここで誰がどう動こうと、もう決まったんだから。『選択』は終わった。もう介入できない。取り消しも効かない。……なにが心配?」

そうだ。『選択』は終わった。自分たちの役目は終わった。……はずだ。なのに。

「じゃあなんで近づくの?」

「え?」

リョウがわずかに目を瞠る。たたみかけるように志鶴は尋ねた。

「『選択』は終わってるのに、なんで近づいたりするの?それで気持ちが揺れたら?変えられないのに望んだら?傷つくのは『理帆』っ」

「志鶴っ!」

がたん、とリョウが立ちあがる。その、向かい側。千津穂が息を飲んで目を見開いた。

「……樹川、くん……」

そのつぶやきに、入り口に背を向けていたリョウが振り返る。志鶴が口元を思わずといったように覆った。

なんてタイミング。

小さな紙袋を手にした貴文が、固まったように入り口から少し入ったところで立ち尽くしている。

聞いていた?どこから?

やがて彼の口から小さなつぶやきが落ちる。

「……『理帆』?」

その言葉に反応するように、リョウがゆっくりと近づいた。

「────そんな人は、ここにはいないよ」

店内がしんと水を打ったように静まり返っている。

なんでこんなことになっちゃったんだろう、と志鶴は思った。……分かっている、自分が考えなしに口を滑らせたせいだ。大人気なく、むきになったせいだ。

「でも今っ」

「ああ、忘れてたの?俺、それ。ごめん、わざわざ持ってきてくれたんだ。サンキュ」

貴文がさらになにか言いかけるのにわざとかぶせて、リョウは彼の手から紙袋をひったくる。じゃら、と小さな音がした。

「……ほかになにか?」

にーっこり。

邪気のない……ないゆえにかえってあるように思えてしまう笑顔に、貴文は言葉を奪われる。

「いや……それじゃ……」

それでもなお、なにか言いたそうな彼に向け、リョウは笑顔を絶やすことなく告げた。

「うん。ありがと。またね、おにーさん」

駄目押し。

貴文はくるりときびすを返して店を出ていく。その背中が視界から完全に消えてしまうのを確認してから、リョウは席に戻った。その際、まわりの客や店員に向け、

「ごめんねー、お騒がせしましたぁ。みなさん気にせず続けて続けて」

と屈託なく笑いかける。

こんな芸当、どこで覚えたんだろう?

志鶴は素直にそんな疑問を覚えた。

「……志鶴の方が危ないなぁ」

座りなおしたリョウの言葉に、志鶴は反論の余地がない。

まったくもってそのとおりである。

「ごめん……」

少しうつむく志鶴の隣りで、少年は溶けてしまったパフェのアイスをぐるぐるかき混ぜる。

「あのさぁ、志鶴。傷つかない『選択』なんかないでしょ?そんなの、『彼女』だって百も承知でしょ?」

語りかける口調はさっきよりずっと優しい。

なんだかな、と志鶴は思う。わたしのほうが年上なのに。

「……でも、意味あるの?大体なんであんた、そんなに平気なの?」

問いに。

リョウは少し笑った。

「俺が平気じゃなかったら嘘でしょ?」

言いながら、貴文が持ってきた紙袋をほい、と志鶴の膝に乗せる。開いて見ると、白いネットに入ったたくさんのガラス玉が出てきた。小さなガラス玉。色のついたやつや、透明の中に模様のはいっているやつや、いろいろ。

「ビー玉?」

千津穂が首をかしげた。

ビー玉。そういうのか、これ。

さきほど玩具売り場で見つけて、きれいだなーほしいなー、と思わず言ってしまったのだ。

まさか買ってくれるとは思わなかった。

「ありがとう」

その重みを手のひらに感じながら、けれど志鶴はどうしても尋ねずにはいられない。

「わざとじゃないよね?」

先刻と同じ問いに、リョウが眉を上げる。

「今度はなに?」

「忘れ物。……わざと置いてきたんじゃないよね?」

貴文をここに来させるために。……なんて、そんなこと。

「……それこそ意味ないよね?」

やんわりとリョウが尋ね返した。

馬鹿なことを言ってしまった。そう悟り、志鶴はまたもうつむく。

「ごめん」

ビー玉の重み。リョウの優しさの重み。手のひらに、膝に感じる。

なんでわたしはここにいるのだろう。

「志鶴がいるから、俺が勝手できるんだよ」

慰めているのか喧嘩を売っているのか……勝手と分かっているならその行動を控えろと言いたいが、膝の上の重さに免じて、志鶴は笑ってやることにした。


「ねぇ、リョウちゃん?」

静かな声で千津穂がそう呼びかけたのは、その帰り道でのこと。

自転車に乗りながらの会話は、声が聞き取りにくく、特に千津穂は声がさして大きいわけでもなく、多少の苦労が伴ったが、そのときその呼びかけはリョウの耳に不思議に鮮明に聞こえた。

「……さっきの話。いっこだけ、言っていい?」

千津穂が自分の意見を主張するのは珍しいことなので、リョウも志鶴も少なからず驚いた。

さっきの話。とは、あれのことであろう。

貴文に近づくな、いやそれは俺の勝手だ、という。結局リョウが強引に自分の意見を通す形になっていたのだけれど。

「……それって、樹川くんの傷もえぐることにならないかな?」

リョウは思わず自転車を止めた。少し遅れて志鶴と千津穂。二人して彼を振りかえる。

リョウは考えつかなかった、という顔をしていた。

それを眺めながら、千津穂は思い出す。もう四年も前の、ある雨の午後。色鮮やかに頭の中に再生できるその記憶を。