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籠の中の楽園

第三章

「はじめまして」

強張った面持ちのイルカに、彼はそう言った。初めて会ったときと同じ、冷たいまでの冷静な表情で挨拶を向けてきた。

それはイルカにとって予想外のことで、だから思わず肩がびくりと震えて。そうしたら。

「迷惑をかけた」

深々と、彼が頭を下げた。きっかり直角に体を曲げて、その礼は紛れもなくイルカに向けられていて。

「ちょっ……?な、なに……っ」

突然のことにイルカは驚き、身を引いた。この人はいったい、なにをしているのか。狭い部屋にたった二人、他に誰もいない空間で、けれど思わず助けを求めて視線があたりをさまよう。無論、それを受け止めてくれる人など、ここにはいないのだが。

「だが、どうしてもあなたに会いたかったのだ」

頭を下げたまま、彼は続けた。その声の響きがとても切実だったから、イルカはますます居心地が悪くて、どうしたらいいかわからなくなる。どう答えたらいいのかなんて、わからない。けれど。

いつまでたっても頭を上げない彼に、それは自分が黙っているせいではないのかと思い当たって、彼女は慌てて言を発した。

「は、はじめまして」

なにやら激しくタイミングがずれた気がするが、相手が頭を上げてくれたのでよしとする。本当ははじめまして、ではないのだけれど……そう、思った瞬間。

「……本当に、はじめまして、なのだろうか?」

彼……ランシルが問うともなく、そう呟いた。ぎくりとして目を見開くイルカを、彼はひたと見据える。

「おかしなことを言うと思われるかもしれないが……どうか答えてほしい。私は以前、あなたに会ったことがなかっただろうか」

ふるふるふるふる。首を横に振りながら、恐らく自分は必死の形相をしているに違いない、とイルカは思った。

「ど、どうしてそんなことを……?」

深刻な視線から逃れたくて口にした言葉は、下手をすれば墓穴を掘りかねないものだったが、他に振れる話題もなくては仕方がなかった。そんな彼女に、ランシルは眉間に縦皺を寄せながら答える。

「実は、わたしにはこの一週間ほどの記憶がまるでないのだ。なにか不慮の事故で頭を打ったかどうかしたのでは、と言われているのだが……」

じんわりと背中が冷える。冷や汗が大量に噴出しているのが感じ取れた。今いる部屋は決して暑くないのに、背中はじっとりとしめっている。せめて顔に、表情に出ないようにとイルカは口元を引き結んで、平静を装った。

「それは……災難でしたよね。でも、申し訳ありませんが、 " りごう " の力をもってしても失われた記憶を取り戻すことは……」

仕事用の笑顔をぺったりを貼り付けて、過去に幾度か口にしたことのある台詞をそのまま唇に乗せて、そのまま乗り切ろうとする。けれど。

「いや。あなたに会いたかったのは、霊獣の力で記憶をどうこうしてもらおうということではなく……霊獣ではなく、あなた自身に会いたかったのだ。会わなければならない気がした」

窓のない、小さな部屋。人が通るには少し小さい入り口と、固く狭い寝台があるだけの──ここは、独房。南の隔壁をよじのぼる、という奇天烈な行動をしたキートの隊長は、とりあえずの処置としてこの独房に入れられた。それが今朝のこと。

午後になってイルカはルーチアに連れられ、彼に会いにやってきた。望んでそうしたわけではなく、望まれてやってきた。望んだのは、彼。ランシル。

表向きは、彼の言い分の裏づけを取るための記憶調査、ということになっているが、本当のところは、どうしてもイルカに会いたい、そのために隔壁をのぼったのだ、とランシルが言い募ったというものだった。その理由はイルカもまだ、知らない。

「会ったこともないのに、どうして……そんな?」

部屋の端と端。入り口に背中を押し付けるようにして、イルカは慎重に尋ねる。ランシルが怖いのではない。……自分のしたこと、その重さがわかっているから、彼の視線にさらされるのが辛くて、苦しかった。つい視線が沈むのは、そのせい。けれど彼はそれを誤解したようで、心苦しそうに壁の方を向く。

「本当に、すまない。厄介ごとを起こして迷惑をかけるつもりはなかったのだが……気がつけば、こんなことをしでかしていたのだ。ただ、頭の中に『隔壁をのぼれ。イルカに会え』と、そんな強迫観念めいたものがあって……なぜなのか、それはさっぱりわからないのだが……」

深いため息とともに肩を落とすランシルに、イルカは心底申し訳ない気持ちになる。なぜ隔壁をのぼれ、という思いが生まれたかは知らない。けれど彼が記憶を失い、自分で御することのできない衝動に見舞われたのは、他の誰でもない、イルカのせいだ。彼が今、独房に囚われているのも。栄誉あるキートの隊長ともあろう人がこんな場所で、自分に頭を下げている。本当なら恨んで当然のイルカを、けれど彼は真実を知らないから。だから。

「あなたが、謝ることなんて……」

うつむき、弱々しくかぶりを振って否定することしか、イルカにはできない。それが彼の目に、怯えているようにしか見えないとしても。

「とにかくあなたに会えば、なにかわかるのかと思ったのだが……私は一体、どうしてしまったのだろうな……」

顔を歪めて、ランシルは言った。笑おうとして失敗した、そんな表情で。いたたまれず、イルカはぎゅっと拳を握る。

多分この人は。イルカが抱える不安や恐怖よりもっと、もっと重いものを抱え込んでしまったのだろうと想像できた。その重荷を背負わせたのは、誰あろうイルカ自身だ。その事実すら、彼は忘れてしまったけれど……それも、イルカが仕組んだことなのだけれど。

「わたしは……あなたの力にはなれません。ごめんなさい」

精一杯の思いを込めて頭を下げた。そうすることしか、できなかった。そんな彼女を、ランシルは静かな眼差しで見つめていた。

「構わない。あなたが謝ることはない。……来てくれて、ありがとう」

感情を抜き去ったかのようなその声音は、昨日聞いたそれと同じで。それはこの人の強さの現われなのかもしれないと──そうであってくれればいいと身勝手な思いを抱えて、イルカは彼のいる独房を辞した。

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