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青の情景

mail

…確か私は電話をしてと言ったはずなんだけど。

手の中の携帯を睨みつけるように見下ろしながら、夕沙子(ゆさこ)はため息をついた。

携帯のディスプレイには、メールの文字。

気を抜けば、ため息のみならず舌打ちまでもが飛び出しそうであった。

メールの相手は、彼女の夫である和樹だ。

夕沙子は、彼からのメールに心をときめかさなかったことはない。出会ってから三年が経つという今でも。

それは彼がいつもロマンチックな言葉をくれるからでは、決してない。

それどころか、和樹はロマンチックなどという言葉とは無縁の男であった。そんな言葉を知っているかどうかすら疑わしい…と夕沙子は思っている。

それであっても、彼からのメールは待ち遠しい。

一緒に暮らすようになるまで、それは特に楽しみなものだった。

無愛想な言葉の端々に彼らしさがほの見える。他愛ない会話が楽しくて嬉しくて、日に何通もメールを送った。

携帯のメールという機能にどれだけ感謝したことか。

ロマンチックではない彼だけれど、メールの返信は億劫がらずにしてくれた。口数の少ない彼なのに、自分の送った長文メールに付き合って、同じく長文で返してくれたりすると、夕沙子の気持ちはそれだけで明るくなったものだ。

けれど。

ここ最近の夕沙子はこのメールという機能に小さな苛立ちを感じている。

便利なのは認めよう。けれど、足りない。

これは自分のわがままなのだろうか。

ぱたん。

折り畳み式の携帯を閉じ、ころんとベッドに横になる。

せっかく作ったのに。

決して広くない2Kのアパートだから、視線さえ延ばせばダイニング代わりの和室が目に入る。その食卓に並べられた夕飯の用意も。

今日はとても寒いから、あったまるものを一緒に食べようと思ってシチューを作った。彼が寒い寒いと手をこすり合わせながら帰ってくるのを楽しみに待っていたのだ。

そこに。

『仕事で帰れなくなった。ごめん。ちゃんと休んどけよ』

そんなメールが、とびこんできたのだった。

和樹の仕事は不規則だ。時にこうやって会社に泊まりこむこともある。

それは夕沙子も理解している、つもりだ。

だから、そのことを責めるつもりはない。寂しくはあっても。

それゆえに。

「…あんにゃろう…」

こんなつぶやきが落ちてしまうには、別の理由があるのだ。

別に彼がいない夜を過ごすのは初めてではないし、前述のように理解もしている。けれども、それでも思わず泣きそうになってしまうほどに、このメールは夕沙子を落胆させた。

やっぱり自分はわがままなのだろうか。

和樹が泊り込むのは、そう多いことではない。したがってこんなメールも、そう頻繁には受け取らない。

だが、頻度ではない。そもそも、こんなメールがくること自体が「おかしい」。

「約束したのに」

テーブルの上に空しく並ぶシチュー皿を見つめて、夕沙子は口を尖らせる。

泣きはしない。しないけれど。

口元に力を入れなければ、知らずこぼれるものがあるであろうことは、わかっていた。


あっという間に空になっていく皿を眺めつつ、夕沙子は思い切って口を開いた。

「ねぇ」

かけられた声に手を止めることなく、和樹は目線をこちらに向ける。

「ん?」

いつもと変わらぬ様子、そうまるで。

言うだけ無駄じゃないかという気がしてためらった一瞬に、彼の言葉が滑り込んできた。

「今日のシチュー、うまいね」

言いたいことは、たくさんあった。山ほどあった。

本当は昨日食べてほしかったの。

きっと寒い思いをして帰ってくると思ったから、がんばったんだよ?

だけどね…だけど、本当はそんなことじゃないんだ。

こんな時期、一晩放っておいたって、シチューは腐ったりしないし。

関係ないけれど窓際のシクラメンだって、一日水をやらないくらいでしおれたりはしないけど。

たった一日で干からびそうになるものだって、あるんだよ。

言ったよね?

声を聴かせて。

言葉じゃなくて、声で聴かせて。

遅くなる時ならいざ知らず、今日は帰れないとわかっている日は、声を聴かせて。メールでなくて。

たった一言でもいい、ちゃんと貴方の声が聴けたなら、きっと安心すると思うのよ。

寂しさを募らせることもなく、おとなしく待っていられるのに。

言ったよね?貴方、うなずいてくれた。

だけど、最近ずっと、メールですませちゃってるじゃない?

約束なんて、忘れちゃった?もう忘れちゃった?

電話をする時間も機会もないなら我慢する。だけど、違うよね?

休憩時間あるじゃない。ご飯だって食べるじゃない。何十分もしゃべるわけじゃないじゃない。

ねぇ、私は平気じゃないんだよ。貴方が平気でも。

これはわがまま?わがままなのかな。

だけどね、でも、でも、帰りを待つのって寂しいんだ。

待って待って我慢して、だからこそ帰ってきたときが嬉しいの。

だからこそ、帰ってこれない日はメールじゃなくて、電話がいいの。

わかってくれたと、思ったんだけどな。

昨晩心を埋め尽くした言葉は、想いは、こんなものではない。

本当はその全部、言葉にできるものはすべて、今日彼にぶちまけてしまうつもりだった。

また今度、同じようにメール一本ですまされて悲しい思いをするのだったら、今日こそはちゃんと伝えておくべきではないのか。もう一度。

彼が忘れているのだったら、思い出させなければ。

けれど、そんな決意をしてみたところで。

にこにこにこにこ。

恐らく二枚目の範疇には届かないであろう、だが愛嬌のある顔に屈託のない笑みを浮かべる彼の顔にたじろぎ。

めったなことでは料理の感想など口にしない彼の言葉にほだされ。

夕沙子の中でひっかかった言葉は喉の奥で消えてしまう。

そうして。

「うん、たくさん食べてね」

にっこりと、笑い返してしまうのだ、今日もまた。

次はきっと、ちゃんと電話してきてくれるんじゃないかしら。

そんな淡い甘い希望で文句に蓋をして。

ほにゃら、と緩む表情で、彼女は幸せにおかわりをつぐ。


「蓼科(たてしな)さん、奥さんに連絡しなくていいんですか?」

ずずずっ、とインスタントコーヒーをすすりながら書類を睨みつけていた和樹は、そう声をかけてきた後輩の声に顔を上げた。

壁に掛かった時計の針は、午後十一時を指している。

帰るならばそろそろ腰を上げねば終電がやばい時刻だが、和樹の様子は落ち着いたものだった。

どうせ帰れそうにもない。

「メール投げたから平気」

簡潔な答えに後輩は苦笑をもらす。

「まだ新婚でしょー?奥さんかわいそー。電話の一本くらい入れてあげたらいいじゃないですか。声、聞きたがってると思うなぁ」

茶化した物言いは、しかし正鵠を射ていた。

だが、和樹はふふん、と鼻を鳴らし、甘いねぇ、とつぶやく。

「それは結婚してない奴の言う言葉。声なぞ聞かなくても心が伝わる、それが夫婦ってもんだよ、君」

いわゆる以心伝心ってやつさぁね、と嘯く彼に、後輩は軽く首をかしげた。

「そんなもんですかねぇ」

ずずずっ。

まずいコーヒーをすすりながら和樹は胸を張る。

夕沙子が聞いたら、きっと言う。

やっぱり男はわかってない、と。

世の中、こんなもんである。

- fin -

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