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微睡みの向こう

『───あなた』

声はすれども姿は見えず。手を伸ばしても、ただ空を掴むばかり。虚しさだけが静かに胸の奥底に降り積もる。

遠く近く、それは靄の向こうから聞こえてくるような、呼び声。望むから聞こえるのか、望まざるとも聞こえるのか、それもまた、あやふやで。

求めているのか、逃れたいのか。どちらにしても、追い詰められる。

かつて自分が追い詰めた、女の影に。

『───あなた』

やめろ。

かすかに自分は腕を振った……のだと、思う。消えろ、と念じた。振り返りたくない過去、縛られたくない過去が足元にしがみついて離れない。振りほどこうにも、すでに自分にそれだけの気力がなかった。ただ、流される。

かつては、夢に燃えた。理想もあった。信念も……望みも。何かのために立ち上がる力が潰えたのはいつのことだったろうか。

すべてがぼやけた世界。色あせた世界。それは、自分が力を失ったせいか。それとも。

──わたしの心ごと、お前が奪い去ったのだ……。

呻きともつかぬ嘆息を、漏らした。

幻のように現れて、そうして消えた。儚く夢のようだった、日々。それでも幸せだったと……それは思い込みなのか、真実なのか。それすらも。

──もう、どうでもいいことだ……。

湧き上がるのは、ただ、ため息。ただ、苦しみ。ただ──絶望。

決して手折ってはならぬ花を、手折った罪は。あまりにも、重い。背負いきれぬほどに。けれども背負う。背負うことを自ら課して、それを己が枷として。罪人としての償いを。

だから、だからどうか。そうやって呼びかけるのはやめてくれないか。そうして思い知らされるのはもう、嫌だ。

何度そう願ったか。懇願したか。けれどそれが聞き届けられることはない。

そして、いつもと変わらずまた、今日も。

『あなた……』

微睡みの向こうで、彼女は微笑む。こちらに背を向けて。愛しい者へと。

決して振り返らない笑顔が、それでもわかるから、心に痛い。こちらを。どうか、こちらを。

──こちらを向いてくれ、ディアドラ……。


「──アルヴィス様。もう、そのくらいに」

控えめな声が後ろからかかった。上品な白髪の神父が落ち着いた物腰で扉の方へと促す。それは穏やかでやわらかな動作。小さくそちらを振り返り、アルヴィスは呟いた。

「…喪われた心は、もとには戻らぬのだな」

はい?と先導する神父が立ち止まる。その脇を通り抜け、皇帝はこめかみを抑えた。


「おとうさま!」

元気な足音がふたつ、入り混じって近づいた。銀の光彩が瞳にまぶしくて、アルヴィスは目を細める。

「おかあさま、げんきだった?」

妹の手をひいた少年が、待ちきれないように尋ねた。隣りで銀の髪の幼子は菫色の目をくりくりとさせて塔を見上げる。今、アルヴィスが出ていた塔を。

「おかあさま、げんき?」

兄の言葉を真似する少女の頭にぽんと手をのせ、アルヴィスは微笑んだ。

「ああ、元気だったとも」

途端、二人の顔がぱっと輝き、ほっとしたようにゆるむ。

「よかったぁ」

嬉しそうに笑いあって、また駆け出していく双子を、アルヴィスは微笑みながら見送る。そうして、背後を振り返った。空高くそびえる、白き塔。

彼女が望むままに作り、与えた場所。

彼が求め、愛して手に入れたはずの女は、けれど手の届かぬところで夢を織る。天へ届けと想いを紡ぐ。

『あなた』

──と、そう。夫である自分ではない者へ向け、彼女は睦言を囁き続けるのだ。

喪った心は、元には戻らない。夢の住人となった彼女の心を取り戻すことはできないのだ。そうして、その事実に時折、自らもまた心を手放してみようかとアルヴィスは思う。そうできればきっと、楽になれるであろうにと。

けれど。

駆けてゆく銀の髪、栗の髪。彼女と自分を映したようだ、と彼はひとりごちた。幼い頃に出会っていれば、運命はかくも残酷になりはしなかったのか。

それでも。神は与えたもうた。救いとなる幼子らを。

せめて彼らが幸せであるように。せめて彼らと共に在れる幸せがあるように。

アルヴィスは、願う。

- fin -


FE聖戦誕生祭7作目。シングルでアルヴィス。双子は脇役というより特別出演という感じでしょうか。シグルド亡き後数年経ってから、という設定です。親世代とは少しずれてしまうかな。でも子世代ではないです。ディアドラが心を喪って云々、というのは大沢聖戦(大沢美月という方が書かれた聖戦の系譜の漫画)の影響があるかもしれません。ユリアを逃がすときには正気に戻っているので、喪ったまま、ではないのですが、それはまだだいぶだいぶ先の話で。アルヴィスの願いが木っ端微塵に砕け散るのもまだ先の話で。けれど先がわかっているだけに、かわいそうな人だなぁと切なくなりながら書きました。

2003年5月7日 凪沢 夕禾

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