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籠の中の楽園

第二章

「イルカ?……入るわよ?まだ寝ているの?」

聞きなれた声が苛立たしげに呼んでいる。まだ朦朧とする頭と寝ぼけ眼で扉に眼をやるのと、それが開いて部屋の中の空気がふっと変わったのは同時。

頬の下に感じていたやわらかな毛の感触とぬくもりが消え去ったのも、また同時。

ベッドに倒れ伏すようにして眠っていた自分の下でクッションの役割をしていた " りごう " が姿を消したのだと気がついたときにはすでに、ルーチアがベッドの脇に仁王立ちしていた。

「……呆れた。この騒ぎの最中によくもそこまでしっかり寝こけられるものだわね」

心底呆れた調子でそう言われ、イルカはもぞもぞと体を起こす。

本当に、よく眠れたものだと自分でも思った。昨夜、あんなことをしておいて。眠れるはずもない、この罪悪感から逃れることなどできないと、まんじりともできずに空が明けゆくのを見ていた……のは、覚えている。けれど気がつけばこの状況。まったく自分という人間はどうかしている、と思いながらルーチアの言葉を反芻し、そして。

全身に震えが走った。

「……この、騒ぎ?」

動揺を表に出さぬよう努力しつつ尋ねたが、表情までは誤魔化しきる自信がなくて、ルーチアから顔を背けるようにしながらベッドをおりる。

騒ぎ。騒ぎとは、なんなのか。まさか、 " 彼 " のことがばれた?それともキートの隊長のことが?

「 " 外 " からの侵入を試みたバカがいたのよ」

ばっさりと斬って捨てるような物言いで、ルーチアが答えた。凍りつくイルカの反応には気づかぬ様子で、先を続けた。

「今朝早くのことよ。まだ夜も明けきらない頃に、南の隔壁付近をうろうろしている人物がいたのですって。ちょうどキートが見回りをしていて、怪しいと思って挙動を見守っていたところ、なんと隔壁をよじのぼりはじめたのですってよ。信じられる?」

まるで心臓を鷲づかみにされたかのような痛みすら感じる緊張の中で、イルカは首をかしげた。

隔壁を……よじのぼった……?

ワーラカには眼に見えぬ結界のほかに、物理的な壁、「隔壁」と呼ばれるものが存在する。それは " 外 " の人々が結界があると知らずに踏み込むことを制止することと、その中にあるものを意識的に隔絶するという二つの役目を担っているものだ。ワーラカを四方からぐるりと取り囲み、ちょうど結界を視覚化したような形で設けられている。

ワーラカに対する知識の浅いものならば、隔壁さえ乗り越えることができればなんとか中に侵入できる、と考えるかもしれないが、実際のところ隔壁は結界とほぼ同意であり、そこに侵入者を感知すれば、キートが動く。迅速に。

そのことは明確に告示されているため、 " 外"に住むものたちのほとんどの認知事項とされている。中には物知らずの者もいて、今回のようなことを引き起こすのであるが。ルーチアが"バカ " 呼ばわりするのもそのためだ。

彼じゃ、ない。

隔壁どころか、結界そのものを誤魔化して侵入しおおせた彼が、そんな馬鹿な真似で捕まるとは思えなかった。

けれど。

「それが、そんな騒ぎになること……?」

年に何度か、今回のような事件が起こる。が、どの場合もキートの対応の速さのおかげで、一般に知られることはないまま処理される。 " 外 " とは隔絶された社会を一目見てみたかった、だとか、一度住んだ場所に戻りたかった、とか、侵入者言い分はそれぞれだが、それらの人々は皆、二度とワーラカに興味を持つことのないまま、元いた場所へと帰っていく。

ワーラカへの興味を含める記憶そのものが抹消される事実は、それを行うイルカを含めてわずか少数の者しか知らぬこと。

そのような立場にいるからこそ、イルカは侵入者の逐一を知らされるわけだが……過去、騒ぎになったというような例は知らない。闇から闇へ、そのような事実は人の耳に届く前に葬りさられる。そうしてワーラカの民は脅威といったものとは無縁の、安穏とした生活を送り続けるのだ。

イルカの疑問に、ルーチアが盛大なため息を吐いた。

「そうじゃないから、よく寝ていられると呆れたのでしょう。朝礼にも出てこないし……事が事だから、あなたにもなにかあったのかと思ったら気持ちよさげにぐーぐーと。……いいこと、よくお聞きなさいね?」

何を威張っているのか知らないが、そう言って彼女は腰に手を当てた。そういえば朝礼のことなどすっかり頭から抜けていた。やはり自分はどうかしている、と思う。きっといろいろ考えすぎたせいでどこか調子がおかしくなっているに違いない。

そんなことを考えながらぼんやりとうなずく。一時の緊張が解けて少し気が抜けていた。だから、油断したのだ。

「その人物は " 外 " から上ったのではないの。内側から外側に……つまり、このワーラカから出て行こうとしたところを取りおさえられたというわけ。前代未聞の出来事だわ……キートの隊長ともあろう人が、なぜそんなことを」

イルカは思わず、あんぐりと口を開けてしまった。

「なんでっ?」

そんなことをする理由がわからない。そんな必要がどこにあるというのか。彼の記憶を消したことと、関係があるのだろうか?あるとすればそれは何だ?

「それはこちらが聞いているのよ、イルカ」

いつもより少しかたい声に顔を上げて相棒を見てみれば。

彼女はなぜか、強張った表情を浮かべてこちらを見ていた。物言いたげな、そして問いたげな、まなざしを向けて。

「……どういう、こと……?」

返った答えは。

「彼が言っているの、あなたに聞けばわかる、と。……イルカ、あなた、何を知っているの……?」

やわやわと踊るルーチアの黒髪。動揺をこらえ努めて平静を装って尋ねてくる彼女の前でイルカは瞠目した。あまりのことに心すら、震えない。ただ純粋な驚愕と不安が、胸に重いものを落とした。