籠の中の楽園
第二章
二
気づけば、勝手に足が動いていた。その場所に向かっていた。
また、会えるだろうか。
その思いが自分を動かす。自分を操っているのではないかというほど、彼の残した言葉は強力だった。眠っていた何かが呼び覚まされたように、イルカの心を揺らし、波紋を起こす。
全部、彼のせいだ。
唇を軽く噛んで、イルカは思った。
今日もまた、ルーチアと喧嘩した。最初にひっぱたかれたのはいつだったか……恐らく三日ほど前のことだったろうと思うが、確実ではない。悔しいかな、この点において、彼女の言葉は正鵠を射ていた。
「まるで夢の中を彷徨っているみたい」
口の減らない相棒は、イルカの状態をそう表現した。心の中を見透かされたようで、イルカはぎくりとしたものだ。
ガーレイと名乗った青年はあの日以降、姿を見せない。いまとなってはあの出来事自体、夢だったのではないかとすら思う。夢見た出来事に日常が振り回される、滑稽にしかすぎなくても、そうであったならどんなにいいか。
鮮烈なまなざしと強烈にすぎる言葉、ただ動揺をもたらすそれらだけを置き土産に、彼は自分を置き去りにした。その事実は確かな記憶としてイルカの脳裏に刻みこまれている。夢などではない。
……けれど。本当にそうであったのか、数日を過ごして、イルカは確信が持てなくなってきている。本当は夢だったのかもしれない。でなければ、あんなことを言うはずがない。けれど夢だったとするならば、そう夢に見る原因が自分にあるということだ。そんなはずはないというのに。
確かめねばならない。夢だったのか、そうでないのか。今のまま時を過ごし続けるわけにはいかないことは、ルーチアに指摘される前から気づいている。
目的地に辿り着き、イルカは果樹を見上げた。あの日と同じように。広げた枝の狭間から陽光をこぼすこの木の下で、イルカは彼に会ったのだ。
あの日。腕の中に抱きとめたイルカに彼はささやいた。
「迎えに来た」
と。
「あんたを待ってる人がいる。一緒に " 外 " に出よう。あんたはここにいちゃいけないんだ」
青天の霹靂。晴れた日に突然起きる雷のような、突然の大事件をそんなふうに言うのだと聞いたことがあるが、まさにそんな出来事だった。
イルカに故郷はない。家族もない。物心ついたときからここに暮らし、オルノアに育てられた。言うなればワーラカが故郷であり、オルノアが父である。けれど、彼は……ガーレイは言うのだ。
「イルカ、あんたには姉さんがいるんだ。ここじゃない、 " 外 " の世界に。俺が連れていってやるよ。だから、一緒に来い」
姉さん。
初対面の、しかも得体の知れない相手の言うことだ、と心の中で声が上がった。信じるに足る根拠などまるでなかった。それでも眩暈がするほどに彼の言葉は、イルカの心を揺さぶったのだった。
「すぐにとは言わない。ゆっくり考えればいい。あんたの決心がついたら、迎えに来る」
勝手な言葉だけ残して、彼はイルカを置き去りにした。彼が去った後、イルカはしばらく立つこともできなかったのだ。
動揺と、驚愕と、不安とそうしてまだ残る彼のぬくもりに、体が痺れたように動かなくて。
その感覚はその次の日も、またその次の日も、彼女を支配した。気づけば窓の外、彼がいた場所を見ている自分がいる。懲りもせずやってくるルーチアに指摘されるまで自覚もなかったけれど。
夢だというには強烈に過ぎ、けれど現実だというにはあまりに突拍子もない出来事───。
確かめたくて、ここに来た。あの日の場所。
風に揺れる枝の音と、うららかな陽射しに歌う小鳥の声と、建物のどこかから聞こえてくる小さな小さな喧騒と。……ほかには、なにも、ない。
木の上に人の気配はなく、あの強烈な視線をどこからか感じることもない。いや、もしかしたら。あんな登場の仕方をした彼の事だ、気配を隠すくらいお手のものなのかもしれない。ならば。
「……ガーレイ?」
呼びかける。はじめは小さく、二度目は少し大きく。三度目は思い切って大声で呼ばわってみた。けれど、返答はなかった。
ため息を落とす主人を気遣うように、 " りごう " が姿をあらわす。足元に頭を擦りつける霊獣の首に腰を落として抱きつき、イルカは二度目のため息をついた。
「やっぱり夢だったのかな……。ねぇ、 " りごう " 、お前は覚えていない?ここで一緒に会ったあの人のこと……」
口の利けぬ相手に尋ねても答えは得られぬと承知しながら、 " りごう " に話しかける。答えがなくて進展はなくても、口に出すことで少しすっきりした。溜め込むのはよくない、と思いながら、さらにもう一度ため息を落とす。
溜め込むのはよくない。だが。
「話せる相手がいないんじゃ、しょうがないもんね……」
誰かに相談できたら、どんなに楽だろう。けれど事が事だけに、そんな人間は存在しない。そう……きっと、ワーラカには一人も。
ワーラカの民は " 特別 " 。ここにいられるのは、「選ばれた」者だけだ。その者たちにとってそれは、誇りであり、名誉であり、そして義務だった。
" 「外」を望んではいけない。 "
そんな暗黙の了解が、ワーラカには、ある。それは「裏切り」であり、オルノアへの「背信行為」だった。許されない。
そんな中で一体誰にこのことを打ち明けられるというのか。恐らくは「外」からの侵入者であるあの人が、一緒に行こうと誘った、なんて。それが確かな現実であるならばともかく……夢に見たというのならば、それは。
自分の深層意識にそんな願望があるということではないのか。
そう気づいた時、イルカは愕然とした。彼は突然に現われ、消えた。何の痕跡もない。あるのはただ、自分の記憶だけ。夢でないと言い切るにはあまりに頼りない。
そんなことはない。大好きなオルノアの悲しむことを自分が願うはずなどないではないか。……そう、否定したかった。けれど否定しきれない記憶が、確かにあるから。
それが自分の深層意識の現われなのか、それとも彼は確かに存在するのか、まずはそこから始めなければどうしようもないと悟った。心の中の違和感がどうというより、残された言葉が強烈であったというより、身の置き所のない不安を、動揺をなんとかしたかった。
けれど。
「これじゃ、どうしたらいいんだか……」
迎えに来ると言ったあの人は、けれど数日を過ぎてもいっこうにやって来ない。そもそも、「決心がつく頃に」ではなく、「決心がついたら」なんて言い方がおかしい、と思う。
「まるでわたしの動向が全部わかってるみたいじゃないの」
まるで見張っているかの如く。
そう考えて、ぞくりとした。周囲を見回す。ぎゅっと " りごう " を抱きしめた。
見張っているような視線は感じない。……感じないことが、不安だった。否定しようとすればするほど、夢であった確率が高くなる気がする。自分の深層意識が見せた夢だとすれば、ガーレイの言葉にも納得がいく。彼は自分の中にいるのだ、自分の心などお見通しで当たり前だろう。「決心がついたら」という言葉もおかしくない。
指先から血の気が引いていく気がして、イルカは " りごう " にしがみつきながら、必死の思いをつぶやいた。
「いや。やだよ……わたし、そんなこと望んでない」
その時。かさり、と音がした。
はっと息を呑むイルカの腕の中、 " りごう " は警戒する様子もない。その首を抱いたまま、彼女はささやくように問いかけた。
「ガーレイ……?」
姿を現わしたのは、背こそ高いが色白金髪の、ガーレイとは似ても似つかない青年だった。失望のため息が思わず漏れる。
違う。彼じゃない。
少し褪せた色合いの金髪が木漏れ日にきらきらと輝いた。ワーラカの警備を一手に引き受ける「キート」の制服に身を包んだその青年は、表情に乏しい顔でイルカと " りごう " を見比べるように眺めた。するどい目つきに気圧されて、イルカは " りごう " を抱く手に力を込める。
「具合でも悪いのか」
ややあってから向けられた問いは、イルカにとってはひどく意外なものだった。てっきり、「ここで何をしている」などと問われるものだと思っていたのに。
戸惑って答えあぐねていると、さらに近づいた青年が膝を折って顔を覗き込んだ。突然のことにイルカは目を丸くする。
「顔色が悪いと思ったが……私の思い違いか?」
じっと見つめてそうつぶやいた彼に、イルカは慌ててかぶりを振った。誤解してくれたなら、それに乗らない手はない。
「散歩をしていたら、あの……突然眩暈がして。それで少し休んでいて。でも、もう、平気だから」
へらへらと笑ってみせるが、青年はそれでも少しの間、探るようにイルカを見ていた。嘘がばれたのかと思ったが、そうではないらしい。
「ならば、いいが。長の養い子に助けを差し伸べなかったなどということになれば、あとあとに響く」
自分を知っていることに驚くと同時に、嫌な言い方をする男だ、と思った。
「あなたは?わたしを知ってるの?」
青年は立ち上がり、イルカを見下ろして告げる。
「私はランシル。『キート』の隊長だ。……気づいていないようだから言っておくが、あんたは自分で思っている以上に有名だぞ。なんといっても長のお気に入りだから」
彼の言葉がどういう意味なのかはよくわからなかったが、なにか馬鹿にされている気はした。彼が自分をよく思っていないことも、わかった。咄嗟に厳しい顔つきになったイルカを、ランシルは笑ったようだった。
「そんな顔ができるのならもう平気だろう。さっさと帰るんだな。……ここにはあまり、近づかない方がいい」
「どうして?」
問い返されたことが意外だというように、ランシルはイルカを見返した。何かおかしなことを言ったかと、イルカは不安になる。ここ数日、まともな会話をしていないせいで、話し方を忘れてしまったのだろうか。そのせいで、この人は自分を変なものでも見るように見るのだろうか?
「……噂ほどでもないんだな。ここの結界に不自然な歪みが感じられないか。わずかだが、 " 外 " からこじ開けられたような形跡がある」
返された言葉は、イルカの危惧を否定した。そのことに一旦は安堵した彼女だが、告げられた内容に思わず息を呑む。
「外」からこじ開けられた形跡……。
言われて慌てて意識を集中させてみる。ワーラカ「外」から隔絶する霊的な壁、結界を視るために。……確かに、あった。微少なほつれがある。外から裂かれた痕。かなり気をつけなければ分からない程度に修復されてはいるが。
「いつから……」
「一週間ほど前か。見つけた当時はもう少し粗かったんだがな」
苦い口調に、体が緊張した。
「あなたが直したんじゃ、ないのね?」
ランシルが頷くのに、ますます顔が強張った。……では、彼は、いるのだ。「外」から来たという、あの人……ガーレイ。そうしていまもまだなお、ここに留まっている。自分の通ってきた " 道 " を塞ぎながら、息を潜めて待っている。
イルカが、共に行くと言うのを。
このほつれを修復している人間がいるというのなら、それは原因を作った当人以外に考えられない。そうでなければ今ごろオルノアに連絡がいって、もっと大騒ぎになっているはずだ。「外」からの侵入者。それは、狩られねばならないのだから。
夢だと思い始めていた出来事が、一気に現実味を帯びてきて、イルカは焦った。確かめにきたはずだったのに、それが現実であるとなると、なにかそら恐ろしかった。
「……オルノア様に報告しないの?」
そういえばなぜこの男はそうしていないのだろう。一週間前に見つけたのであれば、とっくに報告していてもよさそうなものだ。そうすれば今ごろ、侵入者は狩り出されていただろうに。
「……確かな証拠があるわけでもない。誰かの悪戯かもしれん」
重く苦い口調が、彼がそう思っているわけでないことを雄弁に物語る。本心とは裏腹なことを口にしながら、けれど彼はオルノアにこのことを告げない。その真意はどこにあるのだろう。不思議な人だ、と思った。同時に、わからない人だ、とも。
「キート」の隊長だというのに……変な人。
そんな思いが伝わったのか、ランシルは端正な顔立ちをわずかに歪め、踵を返す。
「だから、そこにはあまり長居をするな。そして今後、近づかないようにしろ」
言い置いて遠ざかっていく背中を、イルカはぼんやりと見ていた。本当によくわからない人だ。だが、それでもわかったこともある。とりあえず……彼がしゃべらない限りは、ガーレイは狩られない、ということだ。……そう、そして自分がしゃべらない限りは。
「夢じゃ……なかったんだ」
つぶやいた。夢じゃない。それは自分の中にオルノアを裏切る思いがあったわけではないという安堵と共に、別の想いを呼び起こした。
ガーレイが現実に存在するのだとすれば。彼との出会いが、その言葉が確かにあったものだというのなら。
「姉……さん」
わたしには……家族が、いるのだ。
くらり。襲った眩暈は急に立ち上がったせいだと……そう、思い込もうとした。