Open Your Blue Eyes
1
月の浮かぶ海が見える。
僕が彼女と出逢ったのは、そんな窓辺だった。
暗い廊下の端、月灯りに白く映える窓枠から半身を乗り出し、ふぅ、とため息を吐く。
息が白いのは寒さのせいではなくて、右手に持っている吸いかけの煙草のせいだ。今は夏の盛り。いくら涼しいと言ったって息が白くなるわけもない。
耳を澄ませば遠くにかすかな喧騒が聞こえる。別に聞きたくもないから、意識は窓の外に傾けた。
寄せては返る白波のささやかな音。
それは心地よくもあり、またいらだたしくもあり…。
煙に何もかも含有して吐き出せればいいのに。
深く、煙草を吸った。肺の奥まで。
「なにやってんの?」
げほっ、がほっ、ごほっ!!
予告なく不意打ちで耳を打った声に、思わず咳き込んだ。
煙草の煙でむせるなんて、いつ以来だろう。なんて、全然関係のないことがちらりと頭の端をかすめる。
わずかに目の縁ににじんだ涙を悔しく思いながら振り返った先、そこには一人の少女が立っていて。
「なにやってんのさ、そこで」
勝気な感じのする大きな瞳で僕を、睨みつけていた。
それが蒼く見えるのは。
窓から差し込む月の光のせいなのか。
それとも、海の青が映っているせいなのか。
いきなりのことにどうも思考までもおかしくなっているらしい。
普段なら思いつきもしないような馬鹿げた想像が僕の脳裏に浮かんで、消えた。
そうしてどう答えていいものか考えあぐねているうちに、つかつかと歩み寄った少女の手で右手の煙草がさらわれる。
くしゃり。
弱々しげにかすかな音を立てて、それは潰れた。彼女の手の中で。
「なにするんだよ」
勝気な瞳に負けないように言ったつもりが、やけに覇気のないのんびりした言い方になった。なにか格好悪い。
だからなんだというわけじゃないけれど。
少なくともそんなこと、彼女には関係がないみたいだし。
「ここ、病院」
ぶっきらぼうにつっけんどんに、少女は短く告げる。
それでわかるだろ、とでも言わんばかりの居丈高な態度だった。に思えた。僕には。
女の子にしては少しハスキー過ぎる感のある彼女の声は僕の耳に優しかったのだけれど、その物言いは癇に障って。
「だから?」
わざとそんなふうに返す。
僕だって馬鹿じゃない。言いたいことくらいはわかる。
だけど。だからって。
どこの誰とも知らないうちにこんなふうに偉そうに見下される覚えはなかった。ないはずだった。
なのに彼女は変わらず醒めた視線を返すばかりで。
蒼く輝くその瞳で、僕を睨むばかりで。
彼女が何も言わないから、僕も何も言わずに見つめ返した。きついまなざしに負けないように目に力を込めたから、傍から見たら恐らく、睨みあっているように見えただろう。
いや、事実そうなんだけれど。
だけど僕は彼女を睨んでいたわけではなかったし、多分彼女もそうだったのだと思う。
ただお互いに探りあっていただけだ。
先に目を逸らしたのは彼女の方だった。ふい、と窓の方を見る。その向こうの海を。
あるいは、そこに揺れる月を。
「弱虫なんだ」
あの短い時間の中で、彼女に何がわかったというのだろう。僕には何もわからなかったというのに。
淡々とそう決めつけられて、僕はかっとしたはずだった。
怒りの感情が確かに昂ぶったのを、腹のあたりで感じた、のだけれど。
彼女の横顔が、綺麗で。
窓の向こうを見やるその表情が、儚くて。
僕は言葉を失った。同時に、昂ぶった感情もあっさりとその勢いを失ったらしい。
「何が怖いの?」
ゆっくりと、彼女が僕を見る。
蒼い瞳。
それは海の色でも、月が見せる幻でもなく、確かに蒼く。
「親父がいなくなるかもしれないんだ」
何かに導かれるように、その言葉は僕の口から転がり出ていた。
途端、僕の背筋は凍ったように寒くなる。
── いなくなるかもしれないんだ。
それは、紛れもない現実。
たった今手術を受けている父親の死は、90 パーセントに近い確率で確定の未来だった。
ちゃんと認識している。
……していた、はずだ。いまさら怯えることじゃない。
なのに。
「……そう」
相変わらず平坦な声が……平坦なくせに妙にどこかに残る声がすとんと落ちる。落とす。つぶやきを。
笑わないのか。
こんな年になって、大学受験を間近に控えた、そんな年になって、なのにたかが親の死くらいで動揺するような弱虫を。
そのことから目をそらしたくて、気づかぬふりをいつまでも続けたくて……うまくもない煙草に逃げているような奴を。
なぜ、彼女はこうまでもまっすぐなまなざしで見るのだろう。
まっすぐすぎて、居心地が悪い。
「あんたも怖いのか」
短くストレートな言葉がまた、落ちる。
「" も "?」
尋ね返したのはごく自然な成り行きで。
言葉が頭に浮かぶより早く、口から出ていた。
なんだろう。
彼女とのやりとりは、頭じゃなく理論じゃなく、直接心に響いてくるような感じだった。
「──怖いのは、いなくなる側だけかと思ってた」
静か過ぎる言葉に、僕はその真意を測ることはできない。
彼女が言いたいことの半分も、恐らく理解はしていないだろう。
けれど。
「怖いわけじゃない」
わからないなりの反論が、やっぱり勝手に口を突いて出る。
「ただ、困るだけだ。俺はあいつとちゃんと話したことも、なにかをしてやったこともない。そのことに気づいてすらいなかった。だけど、今ここでいなくなられたら、多分後悔ばかり残ることになるって気がついた。だから困ってる。……なんで笑ってる?」
途中で声が尖ったのは、少女が微笑にも似た笑みをこぼしたからだった。
笑われるようなことを、言った覚えはない。
恐らく表情が少しばかり険しくなっただろう僕に、彼女はその薄い笑みを向け、言う。
「ずいぶん自分勝手な理由だと、思ってさ」
蒼い瞳を少し細めて、笑った。
それから不意に窓枠に身を預け、ため息のようなつぶやきをもらす。
「少し、安心した」
そうして小さく震わせた彼女の肩がずいぶんと細いことに、そのときになって僕はようやく気がついた。
彼女が病院の寝着姿であることにも。
彼女の瞳以外に注意を向けるのは、これが初めてだった。
月の光に照らされた彼女の肌は白く、青ざめているように感じられるほどに白くて。
体の線はかろうじて華奢と呼べる程度の細さをようやく保っていた。
触れたら、壊れそうな。
またまた自分には不似合いな、どこか詩的な表現が脳裏をよぎる。
僕のせいじゃない。きっとこれは彼女のせいだ。
彼女の持つ雰囲気が、僕の頭を狂わせる。
でなければ……そう、でなければ。
さっき口にしたようなことを僕があっさり白状するはずがなかった。
初対面の、それもこんな女の子が相手となればなおさらだ。
なのに僕の口はずいぶんと軽く、正直じゃないか?
それはきっと彼女のせいなのだ。あの、蒼い瞳が、僕を見るから。
「安心したって?」
なぜか不意に、いつまでも彼女を見つめていたい衝動に捕らわれて、僕は戸惑い、それを振り切るように言葉を声にした。
月と海を背に、彼女は微笑んだまま答える。
「忘れない人も、いるんだね」
その答えは、僕には理解できなくて。
「そのことが一番、怖かった」
謎かけのような言葉が、続いて。
「忘れないって言葉だけなら、くれる人はいた。だけど、言葉だけじゃ信じきれなくて。……でも、あんたを見てたらちょっと信じる気になった」
蒼い瞳が僕の心を見透かすように、のぞきこむ。そんな錯覚。
「こんなところで独りで煙草なんて吸ってさ。そんなあんたを見たら、なにか安心したんだ」
だから、どうして。
問いは、声にならない。彼女の瞳が僕を抑えこむから。
とりこむように蒼くきらめいて、その中に僕を映し出す。
そして。
なぜかはわからない。
多分、理由なんかなかった。
ただ、お互いが必要だと思ったから。
僕と彼女は、静かな口づけを交わした。月と海と、さやかな風の見守る中で。
「忘れないで」
唇が離れるとき、小さな声が、そう耳をかすめた。
その瞬間、僕はすべてを……僕にわかるだけのすべてを、理解したのだった。
月の浮かぶ海が見える。
そんな窓辺で出逢った彼女に、僕がもう一度巡り合うことはなかった。
奇跡的な確率をものにして生還した父を見舞うたび、院内をあまねく巡り歩いて。
けれどあの蒼い瞳を見つけることはできなかった。
一度だけ、よく似た少女を見つけて追いかけてみたことがあるけれど……瞳が違う。あれは彼女じゃない。
そうすぐに気づいて、追いかけるのを止めた。
あるいは親戚かもしれない。あれだけ似ているのだから姉とか妹とかなのかもしれない。聞けば彼女の居場所がわかるかもしれない……。
そう、思いはした。
けれど、そうやって出逢うのでは意味がないから。
あの夜のように、出逢うべくして出逢うのでなくては。
名前も知らない。
まだ出逢う可能性が残されているのかどうかも、知らない。
それでも、僕は忘れない。
あの夜の蒼い瞳。
そうして、彼女の言葉の一つ一つと、そこに込められた想いを。願いを。
僕が彼女から受け取った、すべてを。
そうして、願い続ける。
君の蒼い瞳がもう一度、僕を映し出すようにと。
ただ、一度限りの邂逅。
彼女は、僕の初恋だった。
- fin -