ヴァレンタイン・イヴ
1
女の子たちがきゃあきゃあ言うのを、遠くから眺めてた。デパ地下の、ヴァレンタイン特設催事場のすみっこで。
右を見ても左を見ても女の子ばっかりで、一人で買いに来てる人はほとんどいなくて。年齢層はさまざまだけど、友達同士とか親子とか…あそこで頭を寄せ合って何か言い合っている揃いの制服着たOLさんらしき人たちは、会社の人に配るのかな。
デパートが流すBGMが聞こえないほどの喚声を女の子たちに起こさせるのは、なんなんだろう。色とりどりの、華やかなラッピング。試食コーナーから漂う甘い匂い。それから……それから。
「もーう、こんなところにいた。早くしないと、いいのはどんどん売り切れちゃうよ?」
いきなりにゅっと目の前に顔を突き出してそんなことを言ったのは、友人の玲夏。わたしをここに引きずってきた張本人。行きたいだなんてこと一言も、わたしは言わなかったのに。
いまどきの女の子らしく明るい色に染めたショートボブの髪を、きらきらしいピンで留めた玲夏は、両手にいっぱいのチョコの包みを抱えて頬をふくらませている。
「……そんなに買うの?」
どうせ何を言っても非難がましいことを言われるだけだから、わたしは話題をそらした。ヴァレンタインにチョコを贈らない女の子がいるなんて信じられないのだと彼女は言う。わたしは、そんな彼女の方が、信じられない。
それなのになんでこんな場所にいるかというと、それは、単に行きたくないと言うタイミングを逸してしまっただけだった。あと、有無を言わせぬ玲夏の迫力っていうのも、少しはあったかもしれない。
「だってどれもこれもかわいいんだもん。迷っちゃって。ま、多少買いすぎたって余ることはないしね。ヴァレンタインにチョコもらって喜ばない男なんていないんだから」
だから睦実も早く買いなよ?
あっけらかんと玲夏はそう言うけど。
「そういうもの?」
上目遣いで胡散臭げに尋ねるわたしに、彼女は「そういうものそういうもの」と軽い調子で答える。
なんだかなぁ。
たしかに、これだけ種類があると興味を惹かれるものもある。あるけど…それは誰かにあげたいっていうのじゃなくて、自分が食べてみたいとか入れ物がかわいいとか、そういう類のもの。わざわざ長蛇の列にならんで会計して、なんて苦労してまで欲しいとは思わない。必要でもないし。
家族にあげるのも、なんだかいまさらって気がするし、同級生の男の子なんて大して話もしないのに、あげるものでもないだろうし。
玲夏があまりにもうるさいので、仕方なくそのあとにくっついて売り場をちょろちょろしながら、わたしは何度となくため息をついた。まったくなんでこんなところにいるんだろう、わたし。
「ほら、これなんかどう?このちっちゃいバスケット、かわいくない?……なにそんなにつまんなさそーにしてんのよ。ほら、見てみなって」
強引にぐいぐいひっぱられて、引きずりまわされて。ぐったり疲れて、帰路についたわたしの手には、結局一つのチョコレートの包みがあった。
あげるアテなんてないんだけれど。
わざわざ出かけて、人ごみの中をうろついて、疲れてイライラして苦労した挙句に手ぶらで帰るのが、なんとなく悔しかったんだもの。だから一つだけ買ったんだった。男性にプレゼントするものなのに、どうして入れ物やら包装やら、ああも女の子向けなんだろうなって不思議に思いながら。
家に帰ると。
台所から甘い匂いがぷーんと漂ってきて、わたしはびっくりした。
この匂いはデパートでさんざんかいだ。チョコレートの匂いだ。
我が家にはお菓子作りが趣味な人間もいなければ、ヴァレンタインのようなイベントに張り切るような人間もいなかったはず…なのだけれど。
珍しくお母さんが何か作っているのかな?なんて思いながら台所をのぞいたら。
「あーっ、もうっっっ!!!」
………。
妹の瑞葉(みずは)が叫びながらボールを流し台に叩きつけるところだった。
「……なにやってんの」
思わず口に出してそう言ってしまったわたしに、はっとしたようにこちらを見て、バツの悪そうな顔をする。その手元にはチョコレートのかけらやら砂糖やら、……ちょっと得体の知れない物体やらが飛び散らかっていて、わたしは顔をしかめた。
きっと後でお母さんが泣くんだろうなぁ、と思って。使ったものを片付けない子だから。
「……チョコ作り」
見てわかんない?とでも言いたげな顔で瑞葉はぼそぼそ答える。不機嫌そうだ。まぁ、この惨状を見ればわからんでもないけれど。
それにしても、びっくりだ。わたしより二つ下で中学3年生の瑞葉は、その年ですでに悟りきったような口をよくきく子で(でも言ってることはまだまだ若い、とお母さんなんかはよく言う)、男っ気もなければ、年頃の女の子らしく誰それがかっこいいだの誰々と誰々がつきあってるだの、そういう話に華を咲かせることもない。……まぁ、わたしも人のことは言えないわけだけど、それはさておき。そういう子がなんでいきなりチョコなんか?
わたしの怪訝そうな顔に気がついたらしく、瑞葉は真っ赤な顔になって、わたしを追い出しにかかる。小麦粉やら溶けたチョコレートやらがべたべたついた手で触られるなんて冗談じゃないから、わたしはそそくさと自分の部屋へ逃げた。
なんだかへんなの。……そう、つぶやきながら。
がっしゃぁん!!というけたたましい音が階下から鳴り響いたのは、午後11時を過ぎた頃。二階の自室で本を読んでいたわたしは、びっくりした。でもそれは、音が大きかったせいじゃなくて。
下に降りてみると、お母さんとお父さんが居間でテレビを見ながら、台所のほうを気にしているところだった。
「どうしたの?」
尋ねても、お父さんが困ったように首を振るばかり。夕食の支度のときに瑞葉と大喧嘩をしたらしいお母さんは、ふん、という顔をしている。心配そうに見てたくせに。
夕飯の支度より自分の用の方が大事だと言い張った挙句にお母さんを台所から締め出して(おかげで晩御飯は店屋物だった)、一体何をやってるんだか。
ため息をつきながらのぞいてみると、床に散ったチョコレートのかけらを集めながら、瑞葉がすすり泣いていた。
一体どうやったらここまで不器用にやれるのだろうというくらい、台所は散乱している。
「あんた、まだやってたの」
さっき大きな音がしたときにわたしがびっくりしたのは、こんな時間に瑞葉がまだがんばっていたということにだった。何かに根を詰めるなんて、彼女らしくない。
乱れた前髪の向こうからわたしを睨みつけて、瑞葉は低い声でうなった。
「だって。できなんだもん」
そりゃそうだろう。日ごろ台所に目もくれない人間が、都合のいいときだけ頑張ったってそうそう上手くいくわけがない。
「なんだってそんなに必死になってるのよ。去年までこういうの、馬鹿にしてたんじゃなかった?」
そう、確か、去年の今ごろは。
『チョコもらって喜ぶ男なんて、ただのガキじゃない』
なんて、すました顔で言ってたのに。
「……だってっ。欲しいって、あいつが言うんだもんっ」
チョコレートなのかココアなのか。茶色いもので薄汚れた顔で、瑞葉は言う。涙声。顔をくしゃくしゃにして、泣いている。
あーあ。こんなに汚しちゃってさ。
わたしはため息をついた。
「手伝おうか?」
お菓子作りは別に趣味ではないけれど。少なくとも瑞葉よりはマシなものが作れる自信はある。だけども、彼女はふるふるとかぶりを振った。
この期に及んで、絶対一人で作るの、とかほざく気だろうか。本人は満足かもしれないが、周りの迷惑も考えてほしい。……と思ったら。
「もうないの、材料」
沈んだ声。疲れきった顔で、言った。
「失敗するのも頭に入れて、買ってきたんだけど。それも全部、使っちゃった」
呆れた。そこまでする前に、助けを求めるとかすればいいのに。
こんな時間じゃもうお店も開いてないし、材料を揃えることもできない。本人もそれをわかってるからか、ずいぶんと消沈した様子でだんまりだ。
少し考えて、わたしは二階に戻った。机の引出しから、今日デパートで買った包みを取り出す。玲夏がかわいいよ、と差し出したバスケット入りのチョコレート。
それを持って再び台所をのぞくと、お母さんと瑞葉が仲良く並んで後片付けをしていた。
「瑞葉。これ、あげる」
差し出すと、彼女は目を丸くしてわたしを見た。
「……お姉ちゃん、チョコなんて買うんだ」
心底意外そうにそう言うから、思わず笑っちゃった。
「手作りじゃないけど、ないよりマシでしょ」
言って、部屋に戻ろうとしたわたしに。
「ほんとにいいの?」
瑞葉が心配そうに尋ねる。だから、笑って答えた。
「いいの。自分用だから」
そうしたらやっと瑞葉も笑って、ありがとうと言った。女の子の顔だった。
なんだかへんなの。……また、そうつぶやきながら部屋に戻って。
なにが変なんだろうって首をひねった。答えはわかっていたけど。
必死にチョコ作りをしていた瑞葉の顔が、かわいかったんだ。散らかしまくって、汚れまくって、泣いた顔なんてボロボロで。でも、最高にかわいかったんだ。
来年の今ごろはもしかしたらわたしも、あんな感じになってるのかな?
それは全然実感のわかない想像だったけれど。
それも悪くないかもね、なんて……少しだけ、思ったりした。
そんな夜更け。明日は、ヴァレンタイン・ディ。
- fin -