青の情景
Latter for You
ごいん。
後頭部を直撃する痛烈な一打に、壱哉は目から星が飛び出すかと思った。
漫画なら確実にそういう表現をされていたはずだ。
い……いってえぇぇぇっ。
叫んだはずだが声にはならず。あまりの痛さに声帯が凍ってしまったのかもしれない……なんて思いながら、のろのろと自身の頭をさする。
痛さの割に行動がのろいのは、それでもいまもって覚醒してこない意識が幾分かあるためだ。
いや、意識ははっきりしている。今の強打でばっちりと覚醒した。
だが、まだ末端神経にまでその覚醒は行き渡っていないのだろう。
ようやく、うーっ、という唸り声を発することに成功しつつ布団に突っ伏したまま痛みが行き過ぎるのを待───。
「……まだ起きないか。んじゃもう一発───」
───つ時間はなさそうだった。
ぼそり、発される声。耳に飛び込んできた言葉に、今度こそ飛び起きる。
「ちょ、ちょお待てっ!!」
真剣に恐れおののきつつベッド脇の窓へと、ぺたり背をはりつけた。
ひきつった顔で反対側のベッド脇に立つ人物に非難ごうごうのまなざしを向ける。
肩の辺りで切りそろえた黒髪、切れ長の黒の瞳の少女……無表情でフライパンを振り上げようとしているのがとてつもなく恐ろしい。
「おや起きた……残念」
女にしてはちょっとばかし低いかも、という声でまたぼそりとつぶやく少女に心穏やかでない少年は唾を飛ばしてわめいた。
「なっ、なにが残念だ!俺の繊細な頭をそんなもので軽々しく殴りつけるな!」
「別に軽々しくはない。有効な手段をとったまでだ」
咆える姿にもまるで表情を変えず彼女は相変わらずの無表情で返す。
ああもうっ!と壱哉は頭をかきむしりたくなった。
たしかに有効だろうとも!
現にしっかりばっちり目を覚ました現実がここにある。
だが、だがしかし、だ。
一歩間違えば大惨事にもなりかねない手段でもあるだろう……というよりも、立派に家庭内暴力じゃないのか、これは!?
ちゃんと目を覚ますことができたらよかったものの、打ち所が悪かったりしたら……。
彼の考えていることがわかったのか、少女はほんのわずか眉を上げると、厳かにのたまった。
「……大丈夫だ。安心しろ───葬式くらいはちゃんと出してやるから」
そう言って、ふっと口元をゆるめる。
…………な、なんでそこで笑う…………?
背筋がひやり、冷たい。それは窓の結露がパジャマに水分を補給してくれているせいだけではないはずだ。
怯える少年を尻目に、少女はフライパンを持って部屋を出ていく。
「さっさと降りてくるように。3分以内で降りてこないと、朝昼抜きだ」
なんでもないことのように、育ち盛りの少年に最後通牒を突きつけ、彼女は扉の向こうに姿を消した。
白羽陽美(はるみ)。
歩く人間凶器の、それが名前だ。
たった今、のんきな面でずずーっと音をたてながら味噌汁をすすっている、向かいの席の黒髪の女。
本日の味噌汁は会心のできだったらしく、珍しく表情がやわらかい。
先ほどフライパンで人を殴打した人間と同一人物とは思えない。
なんとかかんとか滑り込みセーフで食事にありつくことのできた壱哉は、彼女と同じように味噌汁をすすりつつ、心の中でまだぐずぐずと文句を並べ立てていた。
制服を着て顔を洗って……そこまでが精一杯。
寝癖でくしゃくしゃな髪を直す時間はなかった。
3分という与えられた時間以内に食卓につくことができなければ、彼の負けだ。
朝食どころか昼の弁当まで取り上げられてしまう。
彼女はやると言ったらやるのだ。そのことはつい先日骨身にしみて、よおぉっく思い知らされた。
やはり朝起きるのが遅くて、背中に氷なんぞ入れられても起きられなくて、しかも寝ぼけていたから後のことを考えられる頭もなくて……「うるさい」と一言、告げたら。
二日間、食事を抜かれた。
朝も昼も夜も。
仕方なくすすったカップラーメンの、なんと味気なかったことか。
日ごろ美食にありつける生活をしているだけに、食事にありつけないことはかなりの苦痛だった。
外で何かを食べるにしても、二人の生活費の入った財布の紐はしっかり彼女が握っていたし、自分の財布にはすずめの涙にもならないくらいの小銭しかなかった。
……あんなわびしい思いはもうイヤ……。
情けないと呼びたくば呼べ。
相手が一つ年下であろうと、本来この家の管理は現在自分の下にあるのだとしても、人間、強いものが勝つんである。
弱者はしょせん、おとなしく言われたとおりにしていなければならないのだ。
そうしている限り、彼女は別に怖い人でもない───はず、だ。多分。
そんなことを考えているうち、壱哉の手は止まってしまっていたようだ。
陽美はそんな彼をじーっと見つめていたかと思うと、やおら、
「食いながら寝ているのか?」
興味深そうにそう尋ねた。
起きてますよっ!
慌ててかぶりを振りながら、残った味噌汁を一気にかきこむ。
彼女は、ふぅん?と言ってまた自分の食事に没頭する……ああ、心臓に悪い。
小さなことに戦々恐々として過ごすなんて性に合わない。
こんな生活があと……。
「───二日」
ぼそり、陽美がつぶやきをもらした。
「あと二日でお別れだな」
いつもと変わらない淡々とした口調。
壱哉は思わず手を止めて彼女を見た。
「…………なんだ?」
わずかに不思議そうに傾げられる首───いや、なんでもない、と答えて食事を再開する。
あと二日。
あと二日でこの奇妙な同居生活は終わる。
ただいまハネムーン真っ最中の姉夫妻が帰ってきたら。
ちょうどいいじゃない、というアバウトな言葉一つでお年頃の少年少女を一つ屋根の下に放りこんで旅立っていった彼女が帰ってきたら。
待ち望んだことのはずだった。
なのに───。
もくもくと箸を動かす正面に座る少女。
その変わらない表情が、なんでだか憎たらしく……思えた。
「手紙。───果乃穂さんが」
陽美が薄い水色の封筒をひらひらと見せたのは、出かける間際のことだった。
玄関で靴紐を結んでいた壱哉は、一瞬ちらりと振り返ってそれを見、
「置いといて」
そう一言告げて家を飛び出した。
あまりの財布の軽さにコンビニのバイトを始めたのがつい三日前のこと。
見習中の見習いが遅れるわけにもいかない。
ならばもっと時間に余裕をみればいいのだが、ここ数日ですっかり時間を陽美に支配されている身としては、彼女に言われなければ時間をみることすらなくなっていたのだ。
朝起こしてくれるのは、陽美。
食事の時間を教えてくれるのも、陽美。
風呂を催促するのも陽美。
とっとと寝ろ、とリビングから追い出すのも陽美。
そんな生活が一週間続いてみると、その時間帯をなんとなく身体が覚えるもので、彼女の声で動くようになってくる。
けれどバイトに関しては当然の事ながら陽美にはまるで関係のないことなのだから、彼女は口出ししない。
たとえ壱哉が遅れそうになっても、だ。
そもそも、バイトしていることを知っているのかどうかすらも知らない。
そういえば教えた覚えがないような気もするし。
姉の旦那の妹。
血のつながりどころか、家族的なつきあいすらもない相手にどこまで気を許せばいいのだろう?
壱哉には姉のほかに家族がいない。
その姉が結婚して、3人で暮らすことになった。
新婚家庭のお邪魔になんかなりたくなかったし、向こうだって嫌だろうから一人で暮らす、と言った壱哉の意見は、姉のにっこり笑顔ひとつであっさりと黙殺された。
壱哉が幼いころに亡くなった父の残したこの家に、姉とその夫、壱哉の3人で暮らす。今は新婚旅行中で二人がいないため、実際の生活が始まるのは二日後からだ。
二人が留守の間くらい、ちゃんと一人で過ごせる自信はあった。
食事にはことかくかもしれないが……食費さえ置いていってもらえれば、外食すれば問題なしだ。多少姉の作る食事より味が劣るとしても。
が。
どこでどうなったのか……いや、ちゃんと理由はあるのだが、そこに転がり込んできたのが、陽美なのである。
姉の夫の方には、ちゃんと家族がある。
彼の父も母も健在だ。つまり、陽美には帰る家がちゃんとある。
なのになぜ帰らないのか?
素晴らしいことにそのご両親、息子の新婚旅行の日付にブッキングさせて自分たちも旅行に行っちまったんである。
いわく、
「涼介ちゃんだけ海外旅行だなんてずるいわっ」(白羽氏母親談)
ということらしい。
娘には学校があるので、夫婦水入らずで行ってきます……というのはいいが、やはり年頃の娘を一人で家に置いておくのはなにか心もとない。
それであれば……というわけで、うちのおねーさまが一肌お脱ぎになったわけだ。
「だったら陽美ちゃん、うちにいらっしゃいよ」
と。
年頃の女の子が一人で家にいるのと、年頃の男の子と一つ屋根の下で過ごすのと、果たしてどちらが危ないのだろうか……。
なまじっか、陽美の性格が性格なだけに、どちらもあまり危険ではない───とか、思ってしまったりもするのだけれど。
とりあえずは、あと二日。
なんとか二日を乗りきりさえすれば、平穏な生活が戻ってくるのだ。
がしゃがしゃと缶コーヒーをケースに足しながら、壱哉はそう遠くない未来に思いを馳せた。
あの、地獄の朝も明日で終わりだ。
明日の晩に陽美は帰ることになっている。
そういえば、と出かけに陽美が振っていた手紙を思い出した。
彼女は姉の名前を口にしていたっけ。
もうあさって帰ってくるというのに、わざわざ手紙なんて送ってこなくていいのに……。
つい三日前にも絵葉書が届いたばかりだというのに。
元気ならばよい。ちゃんと帰ってきてくれれば。
───ってことは、今日が最後の夜ってことか……。
送別会。……なんて言葉がちらりと頭をかすめたけれど……たった一週間同居しただけの相手にそれも変な話だと、苦笑する。
あさってからは、彼女のいない生活。
それはとても輝かしい未来に思えた。
───そう、思っていた。
「たーだいまー」
帰ったのは晩の10時を過ぎていた。
玄関を開けてそう言った瞬間、おや?と思う。
なんだろう……なにかが、違う。
なにに違和感を感じているのかわからずに首を傾げつつリビングに向かった壱哉は仰天して思わず目を剥いた。
「あら、おかえりー。遅いわよ、不良息子」
聞き慣れたのほほんとした声と笑顔が彼を迎える。
お気に入りのカップに入れた紅茶をおいしそうにすするその姿に、壱哉は言葉を失った。
なんで?
真っ先に頭に浮かんだ言葉は、それ。
なんで、この人がここにいるの?
「ああ、お帰り。寒かっただろ?紅茶飲む?」
ダイニングの方から聞こえたその声にぐるり、首を回しそちらを見……ますます混乱しつつ、やっと絶句状態から解放される。
「明日帰ってくるんじゃなかったのかよ?」
そのはずだ。それとも日付を間違えて覚えていたのだろうか?
あるいは、姉が告げた日数が間違っていたのか。
首をひねる弟に、姉はのんびりした口調で答えた。
「帰りたくなったから一日早く帰ってきちゃった」
肩をすくめてかわいらしい仕草なんぞしてみせるが……壱哉は思わず義理の兄に同情のまなざしを向けた。
このわがままなお姫様のために、彼はいったいどれだけの苦労をしたのだろう。
壱哉の視線に彼は苦笑を浮かべ、熱い紅茶の入ったカップを持ってリビングへ戻ってきた。
ことり、それをテーブルに置き、座るように義弟を促す。
言われるまま腰をおろしながら、そのときになってようやく、あれ?と気づいた。
「……陽美、は?」
彼女の姿がない。
帰りがこれくらいの時間になろうとも、いつもはここで待っていてくれたのに。
「遅くなる前に帰ったよ。よろしく言っておいてくれって」
涼介の言葉に、カップを持つ手が少し、震えた。
……そっか……帰ったのか……。
動揺の意味は、自分でもわからない。
ただ……この感じは、今朝のあの感じと、よく似ている……。
あと二日でお別れだと、それをなんでもないことのようにさらりと言った陽美を小憎らしく思った、あの感じと。
陽美のいない家。
それが……どうして、寂しく感じられるのだろう。
ようやく取り戻した自由のはず───喜ぶべき状況のはずなのに。
義兄のいれてくれた紅茶をすすりつつ、けれど壱哉の表情はさえない。
そんな彼に姉は、そういえば、と声をかけた。
差し出される一通の手紙。薄い水色の封筒。
見覚えのあるそれは、バイトに出かける前、陽美が手にしていたものだ。
姉が旅行先から送った手紙、のはず……。
「壱哉宛の手紙よ。ここに置いてあったけど」
その言葉に、おや?と首をかしげた。
「……って、それ、姉貴からじゃねーの?」
違うわよ、と彼女は首を横に振った。
「わたしが出したのは絵葉書よ?届かなかった?」
きょとんとする姉に、ちゃんと届いたよ、と答えつつ封筒を手に取る。
絵葉書は受け取った。だから陽美から手紙と聞いて首を傾げたのだ。
野々辺壱哉(ののべいちや)様。
封筒の表には手書きの、どこか神経質そうな文字。見覚えがある気がして眉をひそめた。
どこで見たんだっけ……?
差出人の名前はない。
あれ……?
首を傾げつつ、自室へ引き上げる。
『手紙。───果乃穂さんが』
あの時陽美はそう言った……そう、姉が、と。
姉から、とは言わなかった、確かに。
では、誰からの……?
ベッドに仰向けにひっくり返り、封を切る。
出てきたのは、封筒とおそろいの薄い水色の便箋が一枚。
『どうだ、驚いたろう?』
そんな書き出しで、その手紙は始まっていた。
読み終わった壱哉は、思わずうなった。
最後の最後までやられた。
そんな感じだった。
ご丁寧に……切手も貼ってあるし、消印もどきまで押してあるのに。
手のこんだことをよくやるものだ。
よく考えればわかったはずだけれど。姉の送ったものでないことくらい。
姉からのものなら、エアメールになるはずなのだから。
自分が気づかないと、それすらも確信してこの手紙を作成している陽美の姿が思い浮かぶ。きっと嬉々としてやっていたんだろうな。
呆れつつ、口元に浮かんでしまう笑み。
驚いた。
彼女がこんなことを考えているなんて、全然知らなかったから。
何を考えているのか、あの無表情の裏側を読もうとしていつも失敗していた。
彼女は余計なことなんてなにも話さなかったし、自分は自分で何かを話す努力をしなかったから。
けれど───素直に嬉しいと思うのは何故なのだろう。
楽しかったと、言ってくれた。
……俺も、楽しかったよ。
早く終われと何度願ったことだろう。
たたき出してやろうかと考えたことだってある。
けれど……そうだ、楽しかった。
少し年の離れた姉とずっと二人で暮らしてきた。その姉が結婚して、一緒に住むとはいえ、疎外感を感じていなかったわけではない。
一人立ちしたいと言ったのも、それを感じたくなかった、という思いが多少はある。自分では認めたくなかったけれど。
……今は、それを認められる。
陽美が、いたから。
誰にも言えずにいた……自分ですら気づかずにくすぶっていた思いを、ぶつける場所を与えてくれた。
何も考えずにやりとりできた。
気をつかわずにそばにいられた。
それを彼女が意図したわけではなかったにしても……あるいは。
知らずそれを彼女自身求めていたのだとしても。
貴重な時間を過ごせたのは確かなこと。
けれど───。
言ってない。
そのことに対する言葉を、自分は何も伝えられていない。
なんと言えばよいのかも、わからないけれど。
だが、言葉を残してくれた彼女へ。
返す言葉を、探そう。
うまくなんて言えないけど。
顔を見たら、きっと素直になんてなれないだろうけれど。
君への手紙を書こう。
友情とも恋愛とも家族愛とも違う。
強いて言うなら、同志、だろうか?
君の表情を変えられるような言葉を……探そう。
───親愛なる、君へ。
野々辺壱哉様
どうだ、驚いたろう?
昨日果乃穂さんから電話をもらって、今日帰ってくると聞いた。
壱哉にも伝えてくれと頼まれたので、この手紙を書いている。これを読むころにはもう本人に会ったあとだと思うけどね。
そんなわけで、わたしは帰る。
一週間楽しかったよ。壱哉にとってはどうだったかと思うが。
多少強引なやり方だったが、兄たちが留守の間壱哉と暮らしたいと頼み込んだのはわたしだ。
これから親戚になるのに、わたしは春から日本を離れることが決まっている。
その前に、新しい家族と仲良くなれるものなら、と思ったんだ。
春になったら、わたしはフロリダに留学する。
もしも訪ねて来る機会があれば、歓迎しよう。
また会えることを願っている。
白羽陽美
追伸:兄をいじめないでやってくれ。それから……ありがとう。
- fin -