青の情景
Call
────かかってこない、よね……。
ため息をついて、菜里は電話から視線を外した。
かかってくるわけない。
……なにを、やっているんだか。
こんなときはちょっとむなしくなる。
彼氏からの電話を待っている、というのならともかく……女友達が電話をかけてくるのを、こんなにじれったい思いで待っているなんて。
だけど、彼女から電話がかかってきたことなんてない。
なのに何を待っているんだろう、自分は。
「なによ、朱緒の薄情者ーっ」
つぶやいてみたところで何が変わるわけでもないが。
「電話の1本くらい、よこしなさいよね……」
ぱたん。
ベッドに仰向けに寝っ転がる。
────悪いけど、一堂さんの相手って疲れるのよね。
昼間言われた言葉がトゲになって心に刺さっている。
いつもお昼を一緒に食べるだけのご学友。
うわべだけのお友達。
知ってるようなフリしながら、ほんとは全然知らない人。
────その人もさぁ、かけたくない、んじゃないの?電話。
どんな会話をしていたのだかも忘れた。
ただ忘れられない断片だけが心をえぐる。
……なんで朱緒の話なんかしたの、あたし。
朱緒。
一緒の高校に行きたかったのに。
ロングクッションをきゅうっと抱きしめる。
────かけたくない、んじゃないの?
脳裏に響く声。
……そんなことないよね。
心の底に感じたひやりとした感覚に、ますます強くクッションを抱きしめた。
そんなこと、ないよね……────。
一堂菜里と伊勢崎朱緒とは小学校からのつきあいである。
名簿順で一つ違いだったから仲良くなった……というようなことはない。
朱緒は最初からどこか近寄りがたい雰囲気を持った子供だった。
彼女は幼稚園に行っていなかったから、友達がいなくて。
近所に住んでいたのに、菜里は小学校に上がるまでその存在を知らなかった。
第一印象。
色の白い、綺麗な子。
……ちょっと怖そうな。
それだけだった。
他の子にしてもそれは同じようで、そして彼女自身も団体生活になじめないのか、彼女はいつも一人でいた。
本を読んでいるとか、ぼんやりしているとか。
休み時間は大体どこかへ消えていたし。
図書室に行っているものと思われていたが、そうではなかった。
いったいどこで何をやってるんだろう?
その答えはずいぶん後になってわかるのだが、このときはまだ謎のままで、そのせいで彼女はクラス中から好奇のまなざしを浴びることになる。
中には彼女をいじめようとする子達もいた。
あるとき、本を読んでいた彼女の周囲に五、六人の男子が取り囲むように立って、彼女の読んでいた本のページをばらばらめくって邪魔したり、口々にからかったりし始めた。
最初彼女はとても静かにそれを見ていて、見かねた菜里が止めに入ろうとしたそのとき。
やにわに本を取り上げると、端から順に男の子達の頭を叩いていったのだった。
ばんばんばんばんばんっ!
小気味のいい音が教室中に響き渡り、みんなはしんと静まりかえった。
その中で一番最後に叩かれた男の子がしくしくと泣き始め、残りの男子がそれをはやすように朱緒を責め始めた。
それに対し朱緒はとても白けた顔でつぶやいたものだ。
「泣くならやるなよ」
その一言で彼らは黙り込み、その一件以来朱緒はますます孤立した。
それで寂しそうな顔を見せたりすればまだかわいげもあろうが、全然平気、どころか、かえってそれに満足しているような様子ですらあるものだから、誰も彼女に関わろうとしなかった。
菜里もまた、その一人だった。
けれど、ある日。
祖母の見舞いに行った病院で、菜里は朱緒の姿を見かけた。
それも、とても意外な形で。
彼女は笑っていた。とても純粋な笑顔だと、菜里はびっくりした。
そんな顔をしている朱緒を見るのはそれがはじめてだった。
いつも人を小馬鹿にしたような、あるいは関心のない無表情だったので、思わずぽかんとしてしまったくらいだ。
彼女は小さな子供たちと何か話していた。そして一緒に笑う。
その様子を、菜里はじっと見ていた。
やがてその視線に朱緒が気づき、なんだかとても居心地の悪そうな顔をした。
それはいつもと同じ表情でありながら、少し違う……そう思ったのは、気のせいではなかったはずだ。
菜里はそのとき気づいた。そして納得した。
…………すっごく照れ屋なんだ。
とても自然にそう思って、そうすると心がなんだか軽くなって、菜里は微笑みながら、彼女たちのほうへ近づいていった。
「こんにちは。一緒していい?」
二人で子供たちと遊んだあの日から、菜里と朱緒は段々仲良くなっていった。
……主に、菜里が彼女を追い掛け回したのだったけれど。
打ち解けて見ると、朱緒は全然普通の人であることがわかった。……無論、とても個性豊かであることは否めなかったけれど。
中学校に進むと他の友達も増えた。だが、菜里にとって朱緒が一番の友達であるのは変わらなかった。
相変わらず人付き合いの下手な朱緒。
自分勝手で少し傲慢で強引で人を信用してない、だけど本当は優しい朱緒。
ずっと友達でいられるはずと思っていた。だが、友情はある日を境にもろくも消え去ってしまったようだ。
高校進学。
その言葉が、二人の道を分けた。
朱緒が進む高校は、菜里にはとても入れないようなレベルの学校だった。
勉強なんかしてる様子は全然ないくせに、成績は常にトップクラスの朱緒。
けれどまさか、そんな進学校を彼女が選ぶとは思っていなかったのに。
「医者になりたいんだ」
そんなたった一言で菜里を黙らせて、彼女は離れていった。
いや、別に離れていったわけではないのだけれど。
学校がわかれたら、他人になってしまう……そんな予感がした。
そしてそれが現実になってしまっただけのこと。
元々、マメな人なんかじゃない。
電話をかけるのはいつも菜里からだったし、遊びに誘うのもやっぱり菜里だった。
だけどそれは、学校で毎日顔を会わせているからこそ、できること。
離れてしまった途端、とても難しいことになる。
だって、迷惑がられたら?
朱緒はもしかしたら、せいせいしているかもしれない。うるさく付きまとう奴がいなくなって。
そう考えたら電話なんかかけられない。
医者になりたいといった朱緒。
勉強だって忙しいに違いないし。
手紙……という方法も考えたけれど、それも気が進まない。
だって、なんだか変な感じ。
いきなり改まって、何を書けばよいというのだろう。
そんな感じで、最後に話してから2ヶ月が過ぎようとしている。
学校にもなれた。クラスの人ともそれなりにうまくやっている。……でも。
なにかが違う。
話を聞いてくれるような、そんな人はいないから。
「……電話、してきてくれないかなぁ」
かなり都合のいい……そして非常に確率の低いことを、菜里は願う。
まだ半分睡魔に引きずられている耳に、電話のベルが届いたのはそのときのこと。
…………まさかね…………。
思いつつも期待してしまう。
けれど。
「もしもし?」
電話の向こうから聞こえてきたのは、若い男性の声。
「すみません、わたくし、電話によるアンケートをですね……」
がちゃん。
落胆と怒り半々で、受話器を下ろした。
……まぁ、こんなもんよね。
ため息をつきつつ心の中でぼやいた瞬間、またベルの音。
しつこいなっ。
受話器を取り上げ、一言怒鳴ってやろうと息を吸い込み、
「────もしもし?」
耳に飛び込んできた声に固まった。
「……あ、けお?」
カタコトでしゃべる子供のようにつたなく問い返すと、受話器の向こうで彼女はくすりと笑った。
「久しぶりだね、菜里」
あまりのタイミングのよさに、菜里は絶句する。
かかってきてほしいと、そう確かに願いはしたけれど。
今まで一度だって電話なんてしてこなかった、この人が。
「菜里が泣いてる夢を見たからさ」
笑いを含んだ朱緒の声。
笑い返した瞬間、涙がぽろりとこぼれた。
「馬鹿ね────」
- fin -