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願い

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「大丈夫?」

気遣わしげな声を、瞳を、きっと忘れない。

遠くから見たときは、あんまり線の細い人だったから、女の子かと思った。けれど、向けられた瞳の強さ、その声の逞しさに、ああ男の子なんだなって納得した。

この人が、セリス様……。

レヴィン様が、大丈夫だから、頼りにしていいから、とわたしを預けていった人。

本当は、不安だった。何も分からないわたしを大切に扱ってくれた大事な人だから、レヴィン様を困らせたくはなくて……だから、うなずいたけれど。いってらっしゃいと、言ったけれど。でも。

右も左もわからない、ってこんなことを言うのかしら?大勢の人が忙しそうに動いている。その中でぽつんと一人、どうしたらよいのかもわからずにただ立ち尽くしている、わたし。

あたりに漂う血の匂いが濃くて、あちこちから聞こえてくるうめき声が痛くて、すがりつく場所が欲しくて、でもすがれる人はもういなくて。

戦場……。

きゅうっとどこかが痛くなる。竦んで、軋んで、痛くなる。頭の奥。胸の奥。心のどこか。

血は、嫌い。赤いのも、この匂いも嫌。嫌い、嫌い、嫌い嫌い嫌い……!!

喉元にせり上がってくる熱いものを堪えて、口元を覆いながらしゃがみこんだときだった。

「大丈夫?」

その声が、聞こえたのだ。

優しくて、暖かくて、包み込んでくれるような声に、わたしは咄嗟にすがりついた。見上げた顔は遠くからしか知らなかった人のもの。それが間近にあって、そうして気遣わしげにわたしを見ていた。

「ユリア?」

言葉を交わすのも、はじめてのこと。けれどちゃんと名前を知っていてくれた。……それだけのことが、どうしてこんなに嬉しいのだろう。どうしてこんなに安心するのだろう。

けれど。

「ここ……いや……」

そのときのわたしは、それを言うのが精一杯で。泣くまいと思っているのにこぼれそうになる涙を堪えるのに必死で。

差し伸べられた腕を放すまいと握り締めながら、駄々っ子のようにイヤイヤと首を振った。

それがわたしと、あの人の──セリス様との、出逢いだった。


夢を、見ていた。大好きなあの人の夢を。……今は遠い、遠いところにいる、あの人を、夢見た。

わたしには、記憶が、ない。といっても、なにもかも綺麗さっぱり忘れているわけではない。

例えば、朝起きたら顔を洗うこと、髪を梳かすこと、食事を摂ることが当たり前なのはやっぱり当たり前で。それぞれの方法だってちゃんとわかっている。少しばかり複雑な髪の結い方だってわかる。料理は…残念ながらほとんどできないのだけれど。

怪我の手当ての方法や…なぜか魔法の使い方までも、わかる。レヴィン様からいただいたライブの杖は、いまでもわたしの宝物だ。

なのに……そんなことはちゃんと覚えているのに、記憶が、ない。自分がどこの生まれでどんな生い立ちか、家族は何人でどんな構成か、そういったことはまるきり思い出せないのだ。

こんなわたしを、レヴィン様はずっと育ててきてくれた。少しぶっきらぼうなところもあるけれど、とても優しい方。大陸のあちこちで戦が起こって、荒れた町を幾つも旅して…そのたびに心が痛くて。でも、レヴィン様のそばなら、安心していられた。暖かい気持ちを失わずにいられた。

時折、わたしには気づかれぬように考え込んでいる様子が……そうしてそのままわたしを見ていることがあって、それが気にかかってはいたけれど……でも、それだけ。穏やかな、日々だった。

そんな日々がずっと続けばいいと、思っていた。願っていた。記憶はなくても、新たに築いた毎日がある。それを大切にしていこうと。

でも。その想いは、かなわなかった。

わたしは、思い出してしまったから。


額のサークレットにそっと、手を触れる。

お母様……。

記憶がない間もずっと、なぜかこれは大切にしなければならないものなのだという確信があって、肌身放さず持っていたもの。今はわかる、これはお母様がわたしに残してくれたもの。

お母様、わたしは何をすればよいのですか……。

ただ、流されるままの人生にも似て。わたしは、自分の行くべき道を、いまだ知らない。ただ、願うだけで。望むだけで。

けれども、その望みを現実にするための術も力も持たずにこんな場所にいる。……ここは、牢獄。

「ユリア、居心地はどうだい?」

冷たい声が壁に響いて、わたしは振り返った。鉄格子の向こうに、よく見知った面影を残す、けれど知らない少年が立っている。わたしを見ている。

「ユリウス……」

かつて、兄と呼んだ人。「ユリウス兄さま」と……けれど、今はもう、そんなふうには呼べない。…これは、誰。ユリウスという名の人の器に宿るモノ。偽物の兄。

けれど他の呼び方も知らなくて、だから、ユリウス、と。呼び捨てた。精一杯の抵抗。

「ふん」

なぜか面白くない顔をしてユリウスは牢の鍵に手をかけた。ねじりきる……そんなふうに、見えた。恐らくは、魔法を使ったのだろうけれど。

そのまま彼が牢の中へ…逃げ場所のないわたしを追い詰めるようにゆっくりとした足取りで入ってくるのを、わたしはぼんやりと見ていた。彼に向けるべき言葉を、わたしは持たない。本当は持っているのかもしれなかったけれど……今は、思いつかなかった。だから、黙っている。

「ずいぶんとおとなしくなったもんだよね。昔は一緒にいろんなことをして遊んだっていうのにさ。父上お気に入りの庭園で、木登りなんかもしたっけね。覚えてる?」

懐かしむような口調で、だのに冷え切った目をして、ユリウスは語りかける。わたしは黙ったまま、そっと横を向いた。

「おしゃべりだってさ、もうやめろって父上が降参するまで二人でうるさくしゃべりたてたもんじゃないか。なんでそんなにだんまりなのさ?」

ユリウスは、何が言いたいのだろう。わたしにどんな反応をしてほしいのだろう。昔を思い出させて、そうして…そして?

「あれはあなたじゃない」

低い声で、呟いた。視界の端に、ユリウスがきょとんと首をかしげるのが見える。意味がわからない、というように。

「あなたは兄さまじゃない。わたしと思い出を共有する、ユリウス兄さまじゃないわ」

くす、と彼が微笑う。微笑って、言った。

「人は変わるものだよ、ユリア?」

そりゃあ長い間会えなかったから、いきなり大きくなった僕に会って驚くのも無理はないけど?

くすくす、くすくす。耳に障る笑い声が、狭い牢の中に響く。どうして、この壁はこうも声が響きやすい作りなのだろうか。

せめて笑顔から逃れたくて、そっぽを向いたまま目を閉じた。

「ならば……わたしもまた、あなたの知っているユリアではないということよ。用がないのならば一人にして」

厳しい声に、自分でも驚いた。こんな話し方ができるなんて。

驚いたのはユリウスも同じだったらしい。笑い声はやんで、ふぅん、と呟く声が聞こえた。そうして、腕を掴まれる……強い、力で。

「……っ!!」

突然のことに閉じていた目を開いたわたしは、目の前の人物がすでに先ほどまでの穏やかな仮面を脱ぎ捨てていることを知った。紅い瞳に燃えるのは…怒り?憎しみ?ファラの炎よりも激しく、そして禍々しい、なにか。

息を飲むわたしの前で、ユリウスは荒れた瞳のままに、笑みを浮かべる。それはとても恐ろしく、空寒い表情だった。

「僕は僕だよ、ユリア?君が君なのもまた、確かなことさ。僕らは世界にたったニ人の兄妹じゃないか。……それとも、本当のことを知ってしまった?」

くすくすと笑うユリウスの声は、いつのまにか、クツクツ、クツクツと聞こえていた。何かを呪うような、その笑い声。言いようのない不安がひたひたと押し寄せてくる。これ以上引き寄せてはいけないと、わかっているのに……わたしは、尋ねずにいられなかった。

「本当の、こと……?」

にぃっ、とユリウスが笑む。

「知りたい?」

これは誰。怖い。怖くて怖くて……でも、その言葉を無視できなくて、震えだす肩を、自分自身を抱きしめながら彼を凝視した。どんな真実を、彼は持っているというのか。

そんなわたしの反応を楽しむように、彼が告げる。ゆっくりと、焦らすように。弄ぶように。

「たったニ人きりの兄妹っていうのは、嘘なんだ」

「なん……」

「僕らには、兄がいるのさ。父親の違う、義理の兄がね」

あ、に……?

あまりのことに、一瞬意味が理解できずに放心した。兄?義理の?そんな馬鹿な。

だってお母様はお父様を愛していた。いくら幼かったとはいえ、それがわからぬわけはない。家族だ。今も、できることならば還りたい場所にいた人たちだ。寄り添った二人に、嘘はない。見交わした眼差しが偽りであったなど……!!

「父上と知り合う前に他の男の子供を産んでいたってだけのことだよ。そんなこと、ほんとはどうでもよかったんだけどね……あいつが、どこかで野たれ死んでくれていたなら、今ごろ僕はもっと安穏としていられたのに」

お父様と、出会う前……。

初めて聞く事実に、わたしは目を大きく見開きながらユリウスを見つめた。そんな反応を、彼は楽しんでいる。それが手に取るようにわかった。

「あいつ……?」

与えられた衝撃が大きくて、それを飲み下すのに必死で、だから……気づかなかったのだ。彼がそのとき、自分に何を期待していたのか。何を……教えたがっていたのか。だから、尋ねた。彼の望むままに。

「反逆者の息子……シアルフィの、セリス」

楽しげに瞳を煌かせて…ユリウスは告げた。ヴェルトマーの城の底、太陽の光も射さない、闇に堕ちた場所で。