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真・三國無双私的三国英傑伝[呉]

孫策(伯符)【 175 - 200 】

字は伯符。呉の君主・孫堅の長男で呉郡富春の人。

父孫堅が黄巾賊討伐に出陣した時、寿春に母親と共に移り、その後舒(ジョ)県に移った。寿春にて周瑜と出逢い、彼のすすめで舒に移ったようだ。このとき孫策、周瑜共に10歳前後だったと思われる。舒にいる間は周家の屋敷に住み、周瑜と親交を深めた。孫策はこの頃からすでに非凡な才能を発揮しはじめることになる。ちなみに友人である周瑜は「美周郎」と呼ばれるほどのいい男であったが、孫策もまた勝るとも劣らない美麗な容姿であったと伝えられる。もとい、非凡だったのは容姿だけではないのだが、それは事細かに述べるよりも彼の成し遂げた事を見たほうが早いだろう。

192年、孫堅が劉表との戦いで没したため、その葬儀の後長江を北に渡って徐州の江都に移るも、徐州の牧(総督)陶謙は彼をひどく嫌ったという。その理由はどうやら袁術の回し者だと思われた、ということのようなのだが定かではない。しかし孫策が母の身を案じて呂範、孫河らの腹心と共に、母方のおじ呉景の元に身を寄せることにしたからには相当に嫌われていたらしいことが窺い知れる。ちなみに孫策は孫堅の死後、受け取るはずだった鳥程侯の爵位を弟の孫匡(そんきょう)に譲っている。

それから2年が経ち、194年、孫策は袁術の配下に入り、その才能を見込まれて袁術に孫堅の部下と兵を返してもらうこととなる。ここで程普・黄蓋・韓当などの孫堅旗下の武将たちが孫策の元に集い、それまで呂範、孫河というたった二人の味方しかいなかった状況から、ようやく将らしくなってきた(もちろん周瑜も味方であるが、このとき側にいたのは二人であった)。その後袁術のもとで幾度かの戦功をたてるも、「こんな息子が居たらなぁ」などと言いながら太守に任ずるという約束を破りつづけ、自分の部下を厚く遇し続けたことから孫策の心は離れていった。

この頃揚州の刺史(知事)に劉ヨウが任命され、伯父の呉景と従弟の孫賁を追い出されることとなり、孫策は劉ヨウ討伐にわずかな兵を率いて出陣。その数、およそ千人、馬は数十頭であったというから、かなりの小部隊である。が、孫賁との合流、さらに戦に出る時に手紙を送った旧友・周瑜との歴陽での再会を経て、その部隊はだんだんと数を増していった。勝ち戦を続けるうちその数はさらなる増加をみていく。195年、牛渚の砦を占拠、ここにおいて孫策は敵にてこずらされることとなった。というのも、相手が陣営から討って出ず、閉じこもったままでいるので討とうにも討てないのである。そこで彼は「自分が死んだ」という噂を振り撒いた。そうして油断して出てきたところをたたいのである(が、その後敵は一層守りを固めたため放置して先に進まざるをえなかったのだが)。この頃には孫策の軍はすでに劉ヨウ軍を凌駕するほどの数になっていた。そしてここに、孫策軍にさらに英雄が一人加わることになる。正史では珍しい一騎打ちに、孫策対太志慈のものがあるが、その太志慈がその人だ。この人と互角の戦いを演じたというのだから、孫策の勇猛ぶりもなかなかのものであったといえるだろう。ちなみにこのとき孫策はおつきのものがわずか十三人だったという。自らを先陣に置こうとする人だからわからなくもないが、幕臣たちの心臓と胃は常に悲鳴をあげていたものと思われる。太志慈が正式に孫策のもとに身を寄せるのは劉ヨウの逃亡後、彼が敗れて囚われた後のことだが、その後の会稽・呉郡の討伐の後、彼は「味方を連れて戻ってくるから行かせて欲しい」と孫策に申し出た。まわりは皆、彼を信じきれずに反対したが、孫策は太志慈を行かせた。そして太志慈は孫策の信に応えたのである。演義においてこの話は太志慈を捕らえた直後の話とされている。

さて、話は前後するが、劉ヨウとの戦いは、彼の逃亡と孫策の曲阿への入城を持って終わりを告げる(その後幾度かの戦いを経て劉ヨウは病死)。その後、呉景・孫賁の軍を袁術に返し、周瑜を丹陽に置き、呉郡攻略を朱治に任せ、孫策自身はは会稽を攻略へと乗り出した。これは袁術との関係を保ちながらじわじわと己の基盤を築きはじめている時期でもあった。王郎が降伏し会稽を攻略すると、華キンも降って豫章も孫策の支配下に入り、こうしていまだ反乱勢力が存在するとはいえ孫策の江東平定は一段落をみる。張昭、張紘が幕臣となったのもこの頃であった。江東を平定し、その新体制作りをはじめた孫策であるが、このもとに有望な人材が集い出したのもこの頃。呂蒙が孫策に召し抱えられた時期でもある。無官の人材をたたきあげて武将に育てていく。孫策に成功をもたらしたひとつの要因ににそういった彼の人材活用の巧さがあったといわれる。

197年に袁術が皇帝を名乗ると、孫策は手紙を送って彼と絶縁し、曹操と手を組んだ。曹操の上奏を受け騎都尉・鳥程侯・会稽太守の位を賜る。政略結婚やら贈り物やらのやりとりがここにあるわけだが、結果、199年には討伐将軍・呉候という位をさずかったのであった。曹操としては、孫策の勢い封じる思惑もあったのであるが。この頃には周瑜も魯粛と共に孫策のもとに戻っており、孫策は反乱勢力を平定しつつ、袁術を討伐するべく出陣したが、袁術が死亡、その後兵力を受け継いだ劉勲へと標的が変わる。弟・孫権の初陣はこのときであった。ときに十七歳である。その後孫策軍は劉勲を撃破、劉勲は曹操のもとに逃げ込んだ。喬公の娘、大喬を孫策が小喬を周瑜が娶り、義兄弟となったのはこの頃だろうと思われる。そしてその年の暮れ、父の仇である黄祖の討伐へと乗り出し勝利を収めるも、仇を討つことはかなわぬまま豫章の平定へと移行した。翌200年、豫章の平定をもって孫策は江東・江南を制し、曹操のいる許都の襲撃を計画するも、一人で遠駆けに出た折、不穏分子として以前に処分していた呉軍太守・許貢の息子とその食客に出会ったおりに重傷を負い、その夜のうちに亡くなる。そのとき弟・孫権に残した遺言が「大将として兵を率いるには自分には及ばないが、人材活用と統治力では自分を上回る」といった内容のものだったという。 二十六歳の早逝、それが、兵を起こして六年余、その短期間に江東を制覇し、呉の基盤を気づいた英傑の最期であった。後、孫権は帝位に就くと、兄孫策を長沙桓王と諡した。

後記

ええと…何も考えずに入れたいこと入れていったらすごく長くなりました(汗でもまぁ、英雄伝というからには激短では面白くないし、よいでしょう…などという言い訳を少々(笑)。これでもかなり削ったのですよ…。さて、気を取り直し。孫策。まずはこの人を語らずしてどうしましょうか。わたしが無知なくせに「三国志が好き」だと豪語してはばからないのはひとえにこの人の存在があるからですね。江東制覇から死去までわずか7年。三国志の中ではごく短い期間しか彼の姿を垣間見ることはできませんが、激動とも言える人生だったと思います。真・三國無双2において、孫堅戦死のイベントで孫策が父親の仇討ちを誓うものがありますが、実際は孫堅が戦死した折、孫策は従軍しておらず、よって彼は父の死を遠く離れた場所で聞きました。上記にも述べた爵位を弟に譲ったというくだりは、なにか切ないものを感じます。このとき孫策は十七歳。父と共に在ったなら、歴史はもしかして変わっていたのでしょうか。さらには、彼の死に関してはいろんな説がありますが、正史にかかれているものが真実であろうと思います。一番気に食わないのは、于吉を処分したたたりのように言われる説ですな。あと、曹操に暗殺されたとかもあるんですが、やっぱり許貢の息子及び食客に襲われたという線だと思います。というか、ほんとの理由は一人でおでかけしたことなんだろうな…。太志慈との一騎打ちのときもあわやというところだったし、ほんとに無謀な人です。そこが魅力でもあるんですが。ちなみにわたしは孫策と周瑜のコンビが大好きで、いつか二次創作なんかも書いてやろうなんて野望があったりもします(笑)。なんでこんなに孫策に魅せられたんだかいまとなってはよく覚えてないんですが、知れば知るほどの彼の魅力は褪せません。わたしの中で三国志の「三国」の中では呉が一番印象が希薄なんですが(多分演義を元にしたものを読む機会が多いからでしょうね。孔明ばっかりなんだもの(笑))、でも好きなのは呉なんですよね。それになにより、真・三國無双では、呉は美形揃いだというのが…(笑)。いろいろと勉強不足な点もあり、まだまだ加筆修正の余地があると思いますが、まぁ三国志初心者のやることと大目に見てやっていただければ嬉しく思います。事の順序に関してはいろいろな説があるようですが、とりあえず流れは間違っていないかと。とりあえず孫策への愛がつたわれば、それで言うことはない(笑)。

oct 26,2001

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